翔んで埼玉

差別も笑えるあいだはいい

 埼玉と東京の県境に関所があった時代を描いたラジオドラマ。居住地別にクラス分けされた学校に転入してきた主人公は、留学帰りで港区民だが埼玉出身。見た目が美しいので、都知事の息子の生徒会長と対等に振る舞うが、実は埼玉解放戦線のリーダー。都知事が金塊を隠し持っていることを暴き、千葉のリーダーと協力して、差別制度を撤廃させる。

 「学園には、お高くとまった奴らか、自分を卑下する人間しかいない」。主人公が言ったセリフは、広く当てはまるような気がする。

 全編ふざけてるから、そんなに気にならないけど、それでもなんかモヤモヤする。埼玉は、ださいたま、と言われたりして、田舎扱いされかっこ悪いイメージで笑いものにされることがあるが、日本全国から見れば、断然都会だ。東京が近いから、比較しやすくて劣って見えるが、実際は大都会だ。それも都心のビジネスや商業に特化した町ではなく、居住地と職、娯楽が同居する、日本一の地域だ。

日本一いい場所だからこそ、自虐ネタが映画にできる。ほかの県でこんな映画が作られたら、本気で上映反対運動する人が出かねない。

 この作品を見ててモヤモヤするのは、なんでだろう。少なくとも埼玉がバカにされているからではない。といって、自虐ネタから感じられる埼玉民の余裕に、イラっとするというわけでもない。

 地域差別が笑いのネタになる人間の性が、今も厳然としてあることに、なんか落ち着けない。人間の闘争本能だから仕方がないと思うとともに、イスラエルの戦争なんかが想起されて、無邪気に笑えなくなってしまう。町中に設置された埼玉県人監視カメラは、中国のウイグル人監視カメラが連想されて、笑ってる場合じゃない気がしてくる。

 埼玉差別は、地域愛と表裏一体だ。虐げられれば虐げられるほど、埼玉への愛が深まっていく。第三者としても、弱い者への判官びいきが強まっていく。ユダヤ人の味方をしたくなる心理と似てて、今イスラエルの攻撃が途方もない状況となっているのを見ると、こういう地域愛も必ずしも褒められたものではないと思える。

 高校野球とか大相撲で、地元の人を応援するくらいはかわいいものだが、先日も自県から初めて首相が誕生したと喜んでいる人たちの映像がニュースで流れた。政治家は政策で支持するかどうか決めるものだろうに、出身地で支援するとなると、ただ何も考えてないのか、それとも何かしらの利益誘導があるのだろうかと、あらぬ邪推をしてしまいそうになる。

 この映画の中でも、都知事が偉い、みたいなセリフがあった。別に都知事も首相も偉いわけではない。一般市民とどっちが上という関係ではない。ただ政策を決定する役を受け持っているだけのことだ。八百屋さんや工事屋さんなんかと業務分担しているだけなのに、伊藤博文の時代から政治家は偉いという、江戸時代に植え付けられたお上意識が、いまだに残っていることには恐怖を感じる。

偉い、という単語には、上下の価値判断が伴う。都知事は偉い、と言うと、同時に都知事以外は偉くない、さらに、副知事が次に偉い、区長が何番目かに偉くて、会長、書記長、社長が偉くて、町内会長が偉くて・・・、と序列を付けることになる。

 この映画は、麻布とか青山とかが偉くて、埼玉が底辺にある、という地域差別の構図を使って、差別を批判している。埼玉が下位にあるというのが事実に反してはいるが、そんな架空の舞台で差別そのものに怒りを表現している。それが今、悲惨を極めるイスラエル戦争を想起させるし、そもそも当人の努力でどうしようもない差別という現実が、見ていてとてもつらい。笑える映画だと思って見たら、なんか深刻な思いにとらわれてしまった。

それを和ませてくれたのが、ラジオを聴いている家族の反応だった。劇中ラジオドラマだけで一つの作品として成り立つのだろうが、聴取者という不思議な立ち位置のつっこみがコメディにしてくれていた。こういう技を使いこなせるようになりたい。

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