髪結いの亭主
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何も成し遂げなくても幸せだ
主人公は、子供の時に散髪屋さんの女の人に行為を抱き、将来の夢は髪結いの亭主だと言って、父親にはたかれる。髪結いの亭主、という言葉に日本語と同じ意味合いがあるのか知らないが、この映画のタイトルを直訳すれば床屋の夫で、映画の主人公は、まさに日本語の髪結いの亭主のイメージ通り、何もせず日々を送っている。
髪結いの亭主とかヒモとかいうと、何もせず女に稼がせて無為に過ごしている人で、そんな人生は最悪だと思う。が、この映画を見て、もしかしたら、それほど入れ込める女に出会えた人生は最高なのかもしれないと思えた。
この映画の主人公の男は、床屋の女と結婚することを夢見て、実際に床屋の女と結婚した。以前、身近なところで、スッチーと結婚したいと子供のころから思っていた男が、実際に日本航空の客室乗務員と結婚して、何年もせずに離婚したことがあった。なんと愚かなことかと思った。
しかしこの映画の主人公は、夢見ていた髪結いの亭主となり、そして妻が死んでもその帰りを待つほど、人を愛する一生を送る。おそらく今わの際に、何の後悔もない生涯だった、と思えるはずだ。
よく好みとかタイプとかいう言葉が使われる。自分が好感を持てる人を観察してみると、決して見た目が美しい人ばかりでないことに気付く。蓼食う虫も好き好きと言うように、人の好みは分からないと思うことが珍しくない。雨夜の品定めではないが、人と好きな人の話をしていて、なんで、と思うことがよくある。それが好みで、生まれつきなのかと思っていたが、もしかしたら、生まれてから出会ってきた人たちに対する思いの蓄積なのではないかと思える。
親に始まって、親戚、保育園の先生、道ですれ違った人、同級生など、生きているうちには無数の人たちと遭遇してきた。その中でうれしい思いも嫌な思いもした。その記憶が無意識下に蓄積され、それが好みとかタイプとかの言葉で表現されるものになっているのだろう。
この映画の主人公は、髪結いという好みを抱えた。それは職業であり、人間性ではない。おそらく好みやタイプといった言葉とは違うレベルのものだ。だから髪結いというだけで結婚したら、僕の身近なところであったように離婚という結末もありえた。むしろその可能性の方が高いだろう。
しかしこの映画の主人公の男は、仕事中の妻をずっと見つめ続け、時に性的な行為もするけど、基本的には待つだけで何もせず、クロスワードで時を過ごすという、人間としてどうかと思う生き方をしているが、それが充実した人生だと言われたら、本人にとってそれが最高の人生なのだと言われたら、死して名を残す虎になれるようにあがいている自分が愚か者に思える。
どっちが偉いとかいう話ではないのだろう。24時間働けますかという価値観に染まってしまうと、なかなか受け入れられない生き方だが、幸せという価値基準で測るなら、24時間働いたビジネスマンより、この髪結いの亭主の方がよほど立派だ。
落語に厩火事というのがある。仕事をせず昼間から酒を飲んでいて平気な亭主を持つ、髪結いの女が主人公だが、この女は不満を口にしながらも、決して亭主が嫌いなわけではない。働くのが苦しみという思い込みが、稼がない人間を悪者にしてしまうが、髪結いの亭主は決して妻を苦しめてはいない。むしろ生きる励みになっている。
たくさん稼ぐ夫が、妻の生きる励みになっている例が、この世にいくらあるだろうか。専業主婦の妻が、夫の退職後に離婚を切り出す、という話を聞くと、幸せは金ではないと思わせられる。
この映画の主人公は、金という点では無力だ。しかし女を幸せにするという点では極めて有力だ。女は、その幸せを失いたくなくて、自ら命を絶つ。そこまでの幸せを人に与えることのできる人生はなかなかない。そこまで幸せを共にできる人と出会えることはなかなかない。