グッバイ・ゴダール

 主人公の女優は、映画監督のゴダールと結婚する。ゴダールは撮影より政治運動に力を入れるようになり、主人公との距離が開いていく。夫婦は不仲になり、自殺を試みたが未遂に終わり、仲間と共同で制作する映画は不本意なものになる。

 「勝手にしやがれ」は、映画史の全貌を知らぬ者にとって、その作品を見ただけでは、魅力や革新性が分からなかった。この作品に描かれるゴダールは、鼻持ちならない人間だ。映画にも政治にも、ひとかどの意見を持ち、他人の意見には聞く耳を持たず、見下す態度をとる。いろんなところで見るタイプの人だ。自分がそうなっていないかと、ついビクビクしてしまいながら見た。

 ゴダールが大学の討論に参加する場面は、三島由紀夫が東大に行った時の映像を思い起こさせた。議論がかみ合わず、見ていてイライラするものだったように記憶する。この作品のゴダールも全く同じ状況だった。熱気ばかりの学生に、冷静な話は通じない。でもゴダールは、若さに、ただ若くて勢いのあることに、頭を下げる。

 この作品のゴダールの苦悶は、年を取り、かつての自作を認められないことに起因する。名声を得た作品に胡坐をかいていられれば、それはそれで安楽に暮らせる。が、ゴダールはそれをよしとしない。過去作は愚作だと切って捨て、新たな創造に挑もうとする。だが、年をとった頭脳と肉体に、それはできない。あるいは、斬新な作品がひらめいたとしても、経験がその具体化を妨げてしまう。

芥川龍之介は25歳までは小説を書かない方がいいと言った。35歳を過ぎたら新たな価値の想像が困難になると言うゴダールと合わせると、25歳から35歳までの10年しか創造の時間がないことになる。はあっ? て感じだけど、実際多くの名作は、この年齢で作られている。25歳以下から創造を試み、ろくなものはできなくても、それが肥しとなって、30歳くらいで成果が表れる。40歳くらいになってから名作を残した人もいるが、気力体力の旺盛なうちに創作に挑むに越したことはない。

 ゴダールという世界的な頭脳を持つ人にしても、世の人とうまく折り合えず、夫婦間もごたごたする、生きベタだったのだ。デモに参加するたびメガネが壊れたり、カンヌから帰りの車の中でしょうもない口論になったり、その背後の音楽がほんわかしていて、あれ、この映画、コメディだったのかと気づかされる。深刻に生きる人は、一歩ひいてみれば、くすっと笑える。生きベタな人が、少し楽に生きられるような視点を示してくれている。

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