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「横浜から来ました、レイラです。」
「横浜から来ました、レイラです。」
結成してから全てのライブでこれを言い続けてきた気がする。いつの日かどこ出身なんですか?と聞かれたら「横浜です。」と淀みなく答えていたけど、細かいことを言うと私はアメリカ生まれ、町田育ちだった。
SNSでもたまに言ってきたけど3歳から23歳までは ARIA EMMA IGARASHIが私の名前だった。
だけど、英語は全く喋れないし、地元に友達は1人もいない。
アメリカで生まれ、2歳くらいで日本に来て神奈川と東京をうろうろして3歳くらいから20歳くらいまでの間、町田に住んでいた。
3歳から幼稚園に通い初めたけど、その頃は日本語が全く話せなかった。変な名前だし、日本語はまともに喋れないし、近所の子には引っ越してすぐいじめられはじめた。
家では親と英語で会話していたけど、それがコンプレックスになり、5歳になる前から「もう日本語で話してほしい」とお願いして家でも一切英語で話すことをやめた。それから英語は全く話せなくなった。
私も幼かった頃、それが理由で他者に攻撃はしなかったものの、いわゆる"普通"ではない人のことをわざわざ理解しようと思わなかったと思うから仕方がなかったんだろうな、と頭では理解もできる。
6歳になって町田市立の小学校に入学した。
隣の席の男の子がクラス1やんちゃな男の子で、初日からいじめられた。ここに書くと気分悪くなる人が出てくると思うので割愛するがえげつないいじめにあった。隣の席の男の子とは小学校1.2.5.6年が同じクラスだったのでその間はいじめられた。6年生になった頃にはいじめがエスカレートして、女子グループにも虐められていたので途中から学校に行くことをやめた。頭もとにかく悪かったけど逃げるように中学受験をして横浜にある私立中学に進学した。家から一駅で行けたしチャリでも行ける距離にある学校だった。クラスにいる殆どの子が横浜市民だったから少し横浜市民の子が羨ましかった。
中学に入学して、何年か経った頃にいじめてきた女子グループの子から謝罪のメールが届いたけど怒りは少しもなかった、考えてみれば隣の席だった男の子のこともなんとも思ってなかった。怒る気も許す気も起きなかった。一番近い表現で言うと終わったことだし心の底から"どうでもいい"と思った。
私は町田で育った9年間の日々が心の底から嫌いだ。いい思い出なんて一つもなかった。小学校の大きな校門をくぐるたび「この生活がいつまで続くんだろう」と幼いながらに思っていた。あれは永遠のように長かった。
中学2年生で軽音楽部に入部して、バンドを始めた。そのまま横浜の高校に進学して校則では禁止されていたけど、こっそりライブハウスでライブをしたりCDを作ったりした。
高校2年生の時、当時組んでいたバンドでF.A.D YOKOHAMAに初めて出演した日に見に来ていたのが今のレイラのギターの三浦だった。その日で当時組んでいたバンドが活休した。それを聞いた三浦から後日連絡が来てレイラを結成することになった。
横浜で生活をしている三浦に合わせてレイラは横浜のバンドとして活動する事になった。もちろんホームはF.A.Dになった。
レイラを始めてなんやかんやであっという間に成人式の時期になった。
成人式には絶対に行かないと決めていたけど、母親に行ってほしいと長いこと説得され続けたので親のために行くことにした。
当日はレイラをしてから出会った一つ年上のカメラマンの友達に成人式に一緒に来てもらった。会場には15分すらも滞在していなかった気がするし、誰からも声はかけられなかた。
バンドやってる同級生にLINEのビデオ電話をかけてスクショしてツーショットもどきを撮ったりした。その日は心の底から横浜市民だったらな、と願った。
コロナ禍に入り母親にコロナを移したくないと思い、町田から都心部に引っ越してから紆余曲折あり、最終的に母親に縁を切られた。
驚きはしたけど、その時初めて町田にいた頃の自分とやっと訣別出来た気がした。
それから2.3年が経ったけど人生で最高に笑っているのは間違いなく今だと思うし、今が生きてて一番楽しい。
最初は“横浜のレイラ”と言う響きに少し違和感があったけど、活動していくたびにF.A.Dへの想いも横浜への想いも強くなった。横浜から遠い地に住んでからその想いは更に増していったし、横浜市のGREEN×EXPOのテーマソングに選んでいただいたり、Fm yokohamaでレギュラーDJをしたり、横浜DeNAベイスターズと出会えたこともあり日に日に横浜の人間としての自覚も湧いた。
てか私の実家から横浜市まで徒歩4分くらいだし別によくね?と自分に言い聞かせながら、地元が近い人じゃない限りは「横浜出身です。」と胸を張って言うことにした。
私は横浜のレイラとして経験したことが、横浜が、大好きだ。
人生の全てを捧げてもいいと思う程には。
※追記
横浜への思いは上京してから日に日に増していく一方だ。横浜のライブハウスで出会った先輩たちに教わったことは、カッコイイバンドが正義だということだ。かっこよくないバンドは容赦なく言われるのだ。それも愛だと思う。私は横浜で培ってきたその正義を胸に東京に引っ越して4年半が経った。東京に来て分かったことは、かっこいいバンドよりも人気なバンドが正義とされていることだ。その理由は頭の悪い私でも痛いほどよくわかる。お世話になっているライブハウスにかっこいいだけでは恩返しもできない。人気なバンドになるため、売れるためにはこうした方がいいよというのは嫌というほど言われてきた。たまに心が折れそうになる瞬間もあった。その度横浜で出会った、かっこいいという武器を磨き続けている先輩の新譜を聴いて、わたしもやりたいことを突き詰めようと決意を固める事ができた。そんなかっこいいバンドの先輩がいる横浜の、F.A.D YOKOHAMAがある横浜のバンドである事を心から誇りに思う。横浜で培ってきた正義が東京でも、全国でも通用する事を信じている。次は私たちが横浜の誇りになりたいと強く願う。