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レールを踏み外して約3年、正式に社会人になることができそうです。

紆余曲折ありながらも結果的に志望度が高い2社に内定をいただき、いよいよ半年を超える人生の休暇の終わりがついに見えることになった。


予定より長くフラフラすることになったが、この空白の期間をせっかくなので振り返ろうと思う。


前提となるこの2・3年を振り返ると、私は大学の新卒を捨て、専門学校に2年間進むことになる。
昼間はもともと縁があったスタートアップでそのまま正社員でもなく、でもメンバーとしてサービスに関わる業務にコミットした。

↓当時の私の決意表明である。

そしてもともと専門を卒業する年で、私は別の会社に正社員で就職する、というタイムリミットを決めていたので、途中迷うこともあったが新しい環境に向けて飛び出すことを改めて決心した。

ただ専門卒業が差し掛かっても、結局キャパシティが足りず、今度も新卒カードを使わずに目の前の仕事・学びを全うしよう、と決めて就活やるやる詐欺をしながら、職場の上司にも若干心配されながら、3月に専門学校を卒業して職場も一旦離れることとなった。

2024年4月、晴れてほぼ無職の24歳がここに誕生した。

ただ、なぜか焦りより、毎日何をやってもいい、時間が大量にあるということへの安堵感やワクワクが大きく勝っていた。
どうせ一度踏み外した道だ、堂々と、自分のペースで。開き直ったマイペースな日々が始まった。

4月〜6月:フリーターな日々

目まぐるしい毎日から解放されたとはいえ、収入が途絶えないようアルバイトをとりあえず探した。実家だから大金は必要ないが、せめて自分の身の回りのものは脛を齧らないために貯金しておくに越したことはない。
いつ進路が決まるかもわからない状態だったのと、とにかく体が動かせる仕事がしたいと急に思って、たまたま見つけた2ヶ月くらい続く短期のイベントスタッフに登録して、一旦収入先を確保した。

最初はなんとなくで応募したバイトだったが、いざ現場が始まったら、蘇澳像の数倍集まったメンバーが面白くて、気がついたら週4、5と朝から晩までバイト漬けの毎日になった。
スタッフメンバーともリピートのお客さんとも仲良くなりつつ、惜しみながら約2ヶ月間のバイト生活を終えた。

一方この頃就活のほうはといえば、コツコツ重い腰を上げてポートフォリオの形を整えつつ、新卒で憧れの制作会社などに応募をしていたが、なかなか現実は甘くなく書類は通ってもその先には進めなかった。

なによりバイトやそれ以外の好きなことをするのが楽しくなっちゃった期間だった。


7月:海外逃亡

あっという間に楽しい2ヶ月は過ぎ去り、夏は家族でモンゴルに行く予定があったので半年ぶりに日本を飛び出した。
祖父とも現地で合流予定だったので、短い間だったが約6年ぶりに祖父と過ごすことができた大切な時間となった。


8月:教習所に通い始める

気がついたら日本に戻ってきて、日常の生活が戻ってくるとまるで日本を離れていた期間は遠い夢だったかのような気分になる。

蒸し器に入れられてるような日本の夏にくたばりそうになりつつ、8月の上旬から親に勧められて教習所に通い始めることになった。

レーシングゲームは毎回左右にぶつかりながら走るからビリは当たり前、遊園地のゴーカートは逆走し始めるくらいセンス0だし、免許はいらないと思っていた。しかし、母親が今年に入って急に足を悪くしたこと、旅行の行き先が広がることなどを考えて、意を決して入校。

最初はビビリまくっていたがなんとか順調に教習は進み、予約サイトと睨みっこが空いたらすぐ抑えるというほぼニートならではの強みをフル活用して通った。

この辺りで再び前職の会社から部分的にプロジェクトの仕事をいただき、家で仕事しつつ、収入も少しキープしていた。

9月:求人応募の乱れ打ちスタート

8月に再び重い腰を起こしてポートフォリオをもう少し説明を深ぼったり、作品を再度整理したり、作品を追加するなどして改良した。

途中で、もはや新卒ではなく、中途枠でももしかして可能性があるのでは…?と思って転職サイトに登録し始めてスカウトなどからも企業を見るようになった。

デザイン系の会社もどんどん求人サイトから可能性があるところをリストアップし、ポートフォリオや履歴書を送りつけまくった。

でも、なかなか9月も前に進めなかった。


想像よりもずっと壁は高かった

デザイン業界ではそれなりにブランド力がある専門学校を卒業したし、学歴もある程度はあるし、ベンチャーで業務してきた経験があるからどこかにはこの時期には引っかかり始めるかなと、と高を括っていたが、想像以上に書類で振り落とされまくって、面接にすらありつけない…
この辺りで自分の実力不足を身に染みて実感することになる。

この社会の中で自分は個人としてまだまだ無力な存在だった。

そして大学3年生のときに自分は無価値だとひたすら思ってメンタルをやられていた頃を思い出して、じわじわ心を削られ始めるのであった。

自分は結局何がやりたいんだろう、あれだけやりたかったデザインも、学校を卒業したら数ヶ月何かを作りたいというモチベーションはほぼないに等しかった。結局自分は何がしたいのか…

しかし、生半可な気持ちではどこも決まらない、とやっと理解して、9月後半からはどんどんデザイン職以外も自分の仕事の経験をもとにできそうな仕事へ視野をどんどん広げることにした。
それから、毎日パソコンと睨めっこして企業を探しては応募をしてを繰り返し、それでも突きつけられるお祈りメールやサイレントお祈りに悔しい思いをしながらもただひたすら目の前できることをやった。

10月:突如軌道に乗り始める

10月に入って、数打ってるうちに次第に打率が上がるようになってきた実感があった。この辺りから徐々に面接にこぎつけられることが増え、面接のために東京都心を駆け巡る日々に変わってきた。

大学の時はとにかく面接が嫌で仕方がなかったが、人前に出る仕事もそれなりにやってきたこと、そして仕事をしていた時の実績も多少あるので面接では自分が想像していたよりも自然に話せることが増えた。
それでも面接は毎回胃がひっくり返るくらい緊張していた。
とはいえ、一次面接通過が増えると少し自信も回復してくるようになった。

もちろんミスマッチなどで一次面接でうまくいかなかった企業もあれば、一方でトントンと話が進む企業も出てきて、10月が終わる頃には最終面接予定が4社くらい決まっていた。

とはいえ、中小・ベンチャー企業が中心なので新卒に比べたらだいぶ選考をショートカットしていただいてるんですけどね。
腐るほど果てしない選考やら面接やらを乗り越えた先に内定を勝ち取る現役就活生には本当に頭が上がりません。


11月:すべて決着がつく。

11月も始まり、ついに志望度が高い企業2社の最終面接が決まり、ドキドキしていた。面接の前と結果を待つ間は何も手がつかず吐きそうだった。
1社目は残念ながらお祈りされ、なんだか悔しくなって久々に家族の前で泣いた。
しかし、その次の日にもう1社の内定が出て飛び上がり、 感情が突き落とされたあとにぶち上がるということがわずか1日の間で起こることとなる。

新卒中途合わせて30〜40社ほど応募しただろうか、ついに内定という2文字がメールボックスに現れた。

その1週間後、お祈りされたはずの企業から復活合格がきて、再び頭を抱え始めたのが現在だ。


ついでに、自動車免許も同じくらいの時期にゲットできた。

車は乗ってみると思ったよりも変な方向に行かないようにしっかりつくられているし、思っていた以上に足の力加減は繊細でなければいけないことを実感した。
なによりやってみると気にしたこともなかったような道路標識・表示・ルールを知るようになってまた自分の世界が広がったようで面白かった。

というわけで、ニートやらフリーターやらときどきお世話になっていた会社から部分的に仕事を引き受けて名前ばかりのフリーランスやらという状態で宙ぶらりんだった私の行き先は、やっと11月に決着が着くこととなった。

無職期間・求職期間で感じたこと

ずいぶん思っていたより時間はかかってしまったが、この長い長いお休みの中で自分が社会から少し浮いてしまったような感覚になったからこそ考え方がちょっと成長したり、人間関係のありがたみを実感したり、いろんな世界を垣間見ることができた。

日本中で今日も大人たちはどこかでそれぞれの仕事を頑張っており、そのおかげで社会が回っていること。

ずっとフラフラしていても黙って見守ってくれた家族がいるありがたさ。

ときどきまた一緒に仕事ができて、所属感を与えてくれた前職の会社・短期のバイト先のありがたさ。

久々に会っても変わらず接してくれる旧友。

スカウト制度やエージェントさんも少し利用した結果気がついた、追われるより追う方がいいな、という自分の性格。(しょうもない)(世の中のスカウトメール9割は信用できない)

そして最後に、こんなフラフラと開き直って自分のペースで生きてきてしまった自分を信じて内定を出してくれる企業がいるということ。

さまよってきて肩身狭い思いもしたし、結果当初考えていたデザイナー職ではないものの、最後は絶対どうにかなると信じて本当によかったと思いました。


そしてこれからへの不安ももちろんあって、なぜか内定ブルーみたいな感情がときどき顔を出すが、どんな環境になろうとも自分を信じて、自分で自分の道を作っていく覚悟でこれからの正式な社会人生活を乗り越えていきたいと思う。


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