論争を呼んでしまう開会式演出の底の浅さ-大坂なおみ選手が最終ランナーで良かったのか-についての私見
今回の論争とは?
The Australian紙に乗った"Burning issue: How Japanese is Naomi Osaka?"が俄かに話題になっている。
個人的に記事を拝見した限り、記事は概ね「大坂なおみ選手が『日本の』オリンピックの開会を宣言する人材として妥当であったか、2020東京大会理念を示すに妥当な人材か」に力点が置かれていたと感じた。確かに件の記事では大坂選手が"multicultural"である点は指摘していたし、2020東京大会の持つdiversity & multiculturalの理念を把握した上での指摘になっていただろう。
しかしながら個人的な推察になるが、記者は2020東京五輪の示す理念、"diversity & multicultural"の持つ文脈が把握できていなかったのではないかと感じる。しかしながらこれは仕方がないことで、日本式多様性など日本以外の国の人にわかるはずがないのである。人口の約半数が非オーストラリア出身のバックグラウンドを持つ国に生きる人にはわからない感覚である。
本文章の構成と意図、そして疑問
これまで煮え切らない文章を書いたが、筆者は大坂なおみ選手が妥当ではなかったというスタンスの元、記事を書いている。
これは決して多様性や多文化共生を否定しているのではない。また大坂選手が妥当ではなかったと主張するのであって、不適格であったともいうつもりはない。大坂なおみ選手をdiversity & multiculturalの対象に置いてしまうような浅く直線的な組織委員会の理解を軽蔑しているのである。そして批判に終始しないために後半にて誰が適格であったかを理由を示しつつ提示したい。一部具体的な選手名が出てくるので、ご不快になったら申し訳ない。
このオリンピックの開会式の浅さはすでに多くの人が感じとるところだろう。ただ個人的には、最も金がかからず、最も意義を示しやすい聖火ランナーの選定に直線的で意義の薄い雑多な選出をしてしまった組織委員会の演出力のなさに失望した。
冒頭のYahooの記事。台湾メディアの指摘が鋭かった。「王貞治も純粋な日本人ではないことに気づいていなかったのかもしれない。」まさに、本文章が指摘する点はこれである。
この王貞治氏と台湾のルーツ。多くの人が知るところである。日本には大坂選手以外に、帰化している選手、移民日系のルーツを持つ選手、多くのアジア系のルーツを持つ選手、その他の国のルーツを持つ選手がいる。しかも、今回のオリンピックには惜しくも出れなかった選手や引退済みの選手まで。現役選手にこだわっても、複数候補になりそうな選手はいる。では、なぜそのようなこれまでの日本の偏見を真正面から受けてきた属性を持つ選手たちではなく、「ハイチ系米国人で黒人女性」という現代差別を真正面に受けてしまうような明確な属性を持つ大坂選手が選ばれたのか。
また件のAustralianの記事では大坂選手の練習の軸が日本に置かれていないことも指摘していた。その指摘は多くの非難は受けるだろう、「海外を中心に活動する選手は国民とみなされないのか」と。個人的にはAustralianの記事の視点に賛同したい。なぜこれまで日本で異質感を感じてきた選手がしてきた「日常的抵抗」を評価せず、明確な属性を持つ選手を選んでしまったのか。
聖火最終ランナーとしての適格性への私見
大坂選手に対する偏見や批判に対して、多くの専門家やご意見番はこのような(↓)意見を出すだろう。この視点は間違ってはいない。個人的にも最初は批判に対してそのように感じていた。
ただ現在では個人的にはAustralianの視点と指摘を好意的に受け止めている。確かに大坂選手は日本国籍であり、日本人という心を持つ。これは疑いようがない。ただし日本語に関しては彼女は少々怪しい。
「日本語を喋れることが『日本人の顔』としての要件に入ってしまうこと」という私見に対する批判はあるだろう。あまりに排外的であると。だが、このオリンピックで最終ランナーとして日本の多様性を示し、多様性に厳しい日本社会を生きる英雄として讃えるに適当であったのは、「日本に練習の軸足を置き、日本語を学ぶことをしなければ生きれなかった帰化スポーツ選手」ではないだろうか。
大坂選手のような「海外に軸足を置きつつ、日本語ができずとも日本人であるというのが広く受け入れられてきたのはここ10年以内」である。彼女は新生日本の価値観の体現者であっても、前回五輪から現在までの55年を総括する選手としては不適当と言わざるをえない。
このオリンピックはそんな、「日本語が日本人の適格要件になっていた過去を捨て去り、日本人の心があれば場所も見た目も性別も関係ない新日本への脱皮の機会」ではなかったのか。
そんな変革と新時代への覚悟を見せるために、組織委員会は直線的に大坂選手を選んでしまったのではないのか。それ故、本文章では大坂選手が聖火の最終ランナーとして妥当ではなかったと考えるのである。
もし組織委員会の意図と個人的な推測が違うとしたら。ただ単に「彼女を選んでおけば多様性を示す」と安易に考えてしまったのであったら。組織委員会が、現代の日本人が理解する多様性を認めねばならない対象の狭さを、国民の意思を代表して世界に露呈させてしまっているだけだとしたら。
「明確に日本人的な属性(肌の色・言語・居住地の同一性など)を持たない人を包摂することこそが多様性だ」という理解の狭さを示してしまっているだけだとしたら。
それはあまりに残念であり、こんな記事の批判の矢面に立たされている大坂選手に謝らねばならない。私の穿った見方があなたの評判に傷をつけてしまうかもしれない。誠に申し訳ない、と。
では誰が的確なのか
個人的には、"現在"日本に練習拠点を置く帰化した現役選手、日本の学校教育を受け長らく日本社会に居た現役選手、もしくは同様の背景を持つレジェンド選手が適当であったのではないだろうか。彼らは日本人でありながら、「外人」として扱われてきてしまった経験者であり、その偏見に対する日常的抵抗をそのプレーと姿勢を以て示してきてくれた。
例えば少し前に話題になったサッカーの李忠成選手。韓国系のルーツと日本への帰化。そしてA代表にも参加している。多くの差別的な言動の被害にも会っている。まさに現代日本が長らく経験している多文化共生の課題と受容の象徴だろう。
他にも、今回惜しくも五輪代表入りできなかったケンブリッジ飛鳥選手。彼は現役選手で、尚且つ日本の学校教育の中で生活してきた。彼も大坂選手とにいた属性を持つ。彼ではだめだったのだろうか。彼の経験では多様性と新生日本を示すのに不十分であったのか。
室伏広治スポーツ庁長官は?彼もハンガリーとルーマニアのルーツも持つ。レジェンドであり、現在はスポーツ庁長官を経験する。彼の功績と背景は多様性を意味しないのか?
他にも、Australianの記事に上がっていた王貞治会長。彼は日本と戦前台湾の経験者であり、多くの日本人にとって、他の国のルーツがある人が身近にいる英雄として、身近な課題を想起させるだろう。「これまでの日本にもルーツを理由に差別してしまっている人がいたのではないか」と。
追加であげればキリがない。大相撲のモンゴルからの帰化力士たち、欧米州からの帰化力士たち。サッカーのブラジルにルーツを持つ日系選手たちや、そのほかの選手たち。ラグビーの帰化選手たち。リーチマイケル選手はコロナの呼びかけCMに出演するなど、この1年以上、多くの功労があった。
まだまだ足りない。ブラジルの日系選手を挙げるなら南洋や東南アジアのルーツを持つ選手もいる。日本の旧領だった国にルーツを持つ選手はこの五輪の最終ランナーに選ばれても異論はわかないだろう。他にもアイヌ系や琉球系の選手、返還前の沖縄を知るレジェンド。なぜ、戦後日本で経験した「何気ない自己の異質感」と戦ってきた彼らではないのか。
偏見に対する日常的抵抗を続け、日本社会の中で生きてきた多くの選手たちは他にもいる。それこそ挙げ切ることができない。ではなぜ、彼らではなく、大坂選手が最終ランナーでなければならなかったのか。
いくら探しても、大坂選手が適格「である理由」はあっても、彼女「でなければならない理由」が存在しないのではないか。
最後に
敢えて書くとなんだか嘘くさくなるが、大坂選手が多様性を示さないというのではないし、彼女を誹謗中傷したいのではない。彼女にオファーを蹴るべきだったとかいうつもりも毛頭ない。彼女は間違いなく新生日本の価値観の体現者であっただろう。
本記事は大坂なおみ選手を対象化して、「多様なルーツを持つ他の選手でも良かったのではないか。」「彼らの方がランナーでなければならない理由が存在するのではないか」に関して持論を提示した。
ただし、そもそも別に多様なルーツを持つ他の選手でなくても良いという論点もある。Australianの記事でも指摘されていたような属性を持つ、医療従事者の経験を持つ選手でも良いのだ。開会式冒頭でルームランナーを走っていた看護師との二刀流で津端選手ではだめだったのか。
本論文では一貫して、大坂選手の持つ属性を対象化してきた。それゆえに偏見に対する日常的抵抗を続けてきた人々を適格者として挙げた。移民日系人、他国のルーツを持つ人、帰化選手の方が適格だったのではなかったかと。彼らは新生日本の価値観を示すことで多文化共生と多様性の理念が示されたと言われたら、どう感じるだろう。これまで戦ってきた彼らの日常的抵抗は、多数の多様性を示す属性を持つ存在の登場により、埋没が進んでしまうのではないか。
日本人が海外に進出する昨今、日本語を話さずとも日本にアイデンティを置く人は少なくない。これは良いことである。ただし、そんな状況を作ってきたのは紛れもなく、これまで日本で戦ってきた"外人"戦士たちがいたからである。そんな"外人"戦士たちを讃え、"日本人ランナー"として最初で最後の日本での祭典場に迎え入れる。これにより多文化共生と多国籍調和を体現する。
である理由とでなければならない理由を満たしうる候補は無数にいるだろう。聖火ランナーはそんな彼らであるべきだったのだ。