沖縄・南風原の戦争遺跡を訪ねる
2022年の夏、友人と沖縄の旅。
沖縄の歴史・生活・沖縄戦に関する資料の展示をおこなう南風原文化センターを訪れ、沖縄陸軍病院南風原壕群20号壕を案内していただいた。
ガイドさんに連れられ、黄金森(こがねもり)の中へ入っていく。
鮮やかな緑色のカタツムリが出迎えてくれた。
けれども入って早々、蚊に何箇所も刺され足が真っ赤になってしまったので、蚊取り線香をとりに戻る。
気をとり直して再び。
蚊に気をとられまいと、ガイドさんのお話に耳を傾ける。
黄金森では各所に大きなへこみが見られた。
爆弾の痕らしい。
何十年と経った今でもこの様子なので、当時は相当大きく深い穴ができていたという。
かつては人々が集う憩いの場だった丘の上。
戦争が始まってから、常に見張りがいる物々しい場所となった。
近寄りがたく、人々から遠い存在になってしまった。
戦争により命を奪われた兵士たちが未だに眠っているという黄金森。
今は緑が生い茂る。
「飯あげの道」。
道と言うが、長く急な坂である。
幅も狭く獣道のようで、当時は今のようにロープが張られていることも当然ない。
ちょうど梅雨に入る前だった当時、地面は湿っていて滑りやすかった。
ひめゆり学徒たちは重たい飯を抱え、この道を往復した。
この「飯あげの道」を下る。
ぬかるみがあり、何度もヒヤッとした。
靴底にたくさんの泥と落ち葉がくっついた。
「飯あげの道」を抜けると、整備された運動公園が見えてくる。
壕の入口へ向かって歩く。
当時は爆弾でできたくぼみに遺体を埋めていてね、とガイドさん。
ひとりひとり丁寧に埋葬することができなかった。
遺体を踏み、逃げ惑った人々。
戦時中は感情がなくなる。
それが一番怖かったと証言する方がいるという。
壕の入口に着いた。
ヘルメットをして中へ入る。
ひんやりしている。
温湿度は年中変わらないそうだ。
当時のまま残された薬の瓶や顕微鏡が目につく。
これらは出口の方に残されていたもので、この壕から出なければならなくなった際に置いていかれたそうだ。
奥へ進むと徐々に暗くなっていく。
緊張感がある。
深く息を吸うことが憚られた。
大丈夫、ゆっくり進もう。深呼吸しよう。
言い聞かせながら進む。
途中、十字路が現れた。
他の壕への連絡路だそうだ。
手術場、ひめゆり学徒が走ったり待機したりした場所。
天井に刻まれた文字から分かる、朝鮮出身者の存在。
ただ時間が経過したに過ぎない。
この場所、この空間で、人々が必死に生きていた。
湿って水が滴る通路を抜け、壕を出る。
目の前に運動公園が見えてくる。
今では考えられない病院のあり様だとガイドさんが言う。
壕の入口まで戻り、研究者によって再現された「壕内の匂い」をかがせてもらう。
つんとするような、表現しがたい匂いがした。
獣の匂いがすると言う人もいれば、
医療従事者であれば死臭だと言うとのことだった。
憲法九条の碑、鎮魂と平和の鐘、鎮魂の歌碑の前で手を合わせる。
折り返し戻る道で、ガイドさんが私たちに語りかける。
当時の状況、匂い、色々想像してみて。
治療法は切断がほとんどだった。
痛みに声を上げても、体を押さえつけて切断するしかなかった。
あの環境では傷口にすぐ虫が湧き、膿んでしまう。
血や膿や糞尿の匂い。
世の中の臭いものをすべて集めたような匂いが充満していた。
それでもしばらくそこにいれば鼻が慣れてしまうーー。
「明日にかけて台風が…」とラジオのニュースが近づいてくる。
ウォーキングの男性が私たちを追い越した。
しばらく言葉が出なかった。
蚊に刺された足が赤々としていたが、痒みを忘れていた。
それでも黄金森の緑と美しい生き物たちとその空気が、私の心を穏やかにした。
当時の人々の記憶は、私の心の中で今も生きている。
ここに訪れた人たちの心の中で、これからも生き続ける。
この地を訪れこの場所を感じることができた、この経験を大切に生きていきたい。
※掲載画像はすべて南風原文化センターに許可をいただいて掲載していますので、無断転載はご遠慮いただきますようお願いします。
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