居場所
「目を瞑って、一番安心する風景を思い浮かべてください」
精神的に不安定になったり、トラウマとなった出来事を思い出してしまうとき、本人の一番安心する風景を思い出すと、心が「安全」を感じて落ち着くと、尊敬する灯台のような存在の医師から聞いた。
私もそれを聞いてから、何か過去のつらいことが頭を離れなくなったときには、目を閉じて信じる場所に帰る。
いつもそこには祖父母がいる。父亡きあと、小学三年生の二学期から中学一年生まで、三年半を過ごした、大分県日田市の母の実家の居間だ。それまで家にいてくれた母は働きに出ていたが、台所に明るい祖母の気配がして、正面では白いTシャツを来た祖父が座っている。ここにいていいんだ。愛してくれる人はいるんだ。あの居間の畳や木の混ざった香りをありありと思い出す。
内閣府が平成二十九年に満十三歳から二十九歳までの男女を対象に行った「若者にとっての人とのつながり」に関する調査では、居場所と思える場所をより多く挙げた人のほうが、「なりたい自分に近づいている」と答えたという。その中には、自分の部屋、家庭、学校、地域、職場、インターネットが挙げられていた。
しかし、居場所がなく、目標を見失った若者にとって、実際には「居場所」は物理的存在に限られたものではなく、数の問題でもないだろうと思う。
昨年の子ども若者白書によると(内閣府)「自分自身に満足している」と答えた(どちらかといえばを含む)割合は、アメリカ、韓国、ドイツ、フランス、ドイツ、スウェーデンで半数以上、日本は45.1%と低い。自分の個性を肯定的にとらえにくい風土があるのかもしれない。
「スペック」や「市場価値」という言葉が浸透し、単一の評価軸でしか物を見られない環境は個性や感性を育てるにはあまりにも窮屈だ。
公に発言をして少しの落ち度があれば叩かれ、少しの過ちも鬼の首をとったように騒がれる。インターネットが発達し、一億数千万人がジャーナリストになり私刑執行人になっているように感じる人も多いだろう。
不惑の歳の大人ならまだしも、若者たちにはたくさん間違う権利がある。個性を育てることを恥ずかしく思うべきではないし、悪いことをすれば愛ある先輩や親に叱ってもらう権利がある。転んで良いのだ。たくさん泣いてそこから痛みを知り、学んでいくチャンスを与える愛のある社会であってほしい。
今が一番素晴らしくなくていい。日々をただこなす、そんなときもあっていい。そんな日々に希望がないと思うこともあるかも知れない。でもきっと、今あなたにその「場所」がなくても、冒頭のように目を閉じて思い浮かべた「夢」や「過去」の場所も素晴らしいあなたの居場所だ。
ひとりになったと思ったとき、許されていないと思ったとき、転んでしまったとき。居場所が見つからない時は、必ずある。でもそんな時には目を閉じて思い浮かべて欲しい。そこにあなたを支えるものがきっとある。そして、思い浮かべたあなたの居場所の中に、立ち上がるヒントはきっとある。
(2020年の記事です)