その力
ディズニーの「眠れる森の美女」の映画が好きだ。もっとも、本でもなんでも私は美味しそうなものが登場すると何度も読み返すほど、アニメや文章の中の食べ物に惹かれ、その場面ばかりを何度も見てしまうのだが。
眠れる森の美女では、物を操る魔法で魔女たちが主人公のため、ケーキをつくる。その魔法で卵を踊らせ、スポンジを作り、クリームをかけて…書いているだけでよだれが出そうだが、最後の舞踏会のシーンでも、ピンクの魔女とブルーの魔女が、結ばれた王子と踊る姫の服をピンクに変えたりブルーに変えたりして、その魔法の力がハッピーエンドを可愛らしく彩る。(小さい頃アメリカにほんの少し住んでいた私はこの英語版に馴染みがあって、最後の「Pink!Blue!」の魔女同士の掛け合いを良く両親と真似していた記憶がある。なつかしい。)
御伽噺では主人公のピンチを救うため、よく魔法が登場する。貧しい主人公が一発逆転、というストーリーには魔法はとても便利だ。
反面、魔法はときに悪を強調するときにも使われる。白雪姫に登場する継母は、嫉妬に狂って鏡を覗き、仮にも娘である白雪姫の息の根を止めるため、毒林檎をつくり、老婆に化けて油断させ、優しい白雪姫の息を奪うことに成功する。しかし、かつて美しかったであろう継母の顔は、嫉妬に狂って青白く恐ろしい顔に描かれている。
いうまでもなく現実社会に魔法は存在しない。積み重なった仕事を一瞬でなくしてくれる人はいないし、苦手なことを得意にしてくれる魔法などない。
そのかわり、人は自分の能力を人のために使うことができる。エクセルが得意な人は表計算を手伝うことができるし、知識や技術があれば、物の修理も組み立ても、時間を短縮することができる。なにも実用的な場面だけでない。優しい人はその優しいこころで人を思いやり、痛みのわかる人は寄り添うこともできるだろう。
人はどうして、それぞれの力を授かり身に付けるのだろうと思うことがある。かつて記者だったとき、自分の持つ筆の重さについて考えることがあった。能力や権力はときに人を傷つけ、人の人生を狂わすこともできる。たとえば、せっかくキノコについて詳しくなってもその知識を人をその毒で殺すために使っては、キノコ辞典も浮かばれないだろう。話が飛び過ぎたか。
何か力を身につけたとき。ときに過信しそうになる。自分はこれで人より優れているのではないかと。人は弱いから、その力を自分のためだけに使おうとしてしまう誘惑にかられる。
しかし、私はいつもこう思う。力は自分が努力して身につけたものでも、人のために、世の中のために、大切な人のために使うため授けられたチャンスなのだと。握ったペンで人を傷つけないようにと願い、大学で教壇に立つ立場になったことで、学生の皆さんに高圧的になっていないか、寄り添えているかを可能な限り気にしている。残念ながら経済力はないので、そこは買っていない宝くじの運を願うばかりだが。
力。ときにそれは人を支配し追い詰めるために使われる。セクハラやパワハラの問題、国に抑圧される人たち…。力はその影響下にある人を怯えさせ、萎縮させ、自由を奪うことを容易にする。
権力や財力を誇り、盾や矛にする風景を目にするたびに思う。私たちは天に(神の存在の有無は置いておいて)力と同時に責任も負わされたのではなかったかと。その力を人のために、世の中のために使うように。人を傷つけ支配するために使わないように。
御伽話の魔法使いは、最後はいつも恩を売ることなくふわっと姿を消す。幸せになった主人公の姿にかげから微笑みを浮かべていなくなる場面もよく見る。
自分が何かを身につけたとき、階段を登ったとき、その時こそ、己を律することができるひとでありたい。力を使わず愛情や信頼で人を惹きつける人であれたらなお素敵だろう。初めて単位をつける授業を大学で持つことになった今年も、改めてそのことを思った。
世界中の力が人のために、大切な人のために使われたなら。夢のような話でも、ニュースの中や周りで苦しむ人たちをみるたび、そう思わざるを得ない。力を持つ人たち。その責任と可能性に今一度目を向けていただきたいとここでひとりつぶやいてみる。
(2020年夏の作品です)