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フィクションであるが故に伝わる風景…
人間の脳というのは、…と書きかけて、脳と心の関係をどう捉えるのか、という思いがよぎるが、ひとまずエッセイとして、今日は、脳、と書かせて頂き、先へ繋ぐことにする。
人の脳は、リアルなものからリアルを写し取っているのか、と考えると、意外にそうではないように思ったりする。現実の実相は、見て触れての五感を通り、常に夢のような仮想空間に移動し記憶されていくのでは、と感じるのだ。記憶される場所は、心地よい陽だまりのような脳内(心)の場所であろうか。
そんな仮説から始まるお話。…
仮想としての現実味、というものに興味が湧くのだ 。
実は、フィクションでないと伝わらない、あるいは記憶に残れない、、そんなことを時々思う。人間の心はリアルをフィクションに変換させる。時が経つにつれ、記憶は物語になっていくのだと思う。
ここで言うフィクション、という言葉が、あまりに大雑把な言葉であるとしたら、言い直そう、メタファーが介在し、人は本当には、心に現実に経験したことそのものを受けとることが出来るのだと思う。
1つの例として、「卵かけご飯」について想像してみたい。
a).毎朝のこと、炊飯器を覗き込むとたちまち湯気で真っ白に曇ってしまう眼鏡を笑いながら。1粒1粒が立ち上がり、透き通るように炊き上がったばかりのご飯を、さっと水にくぐらせた木杓子で、少し大きめの粉引きの飯碗に盛る。
次に、お気に入りの紫檀の箸で、ご飯の真ん中を少し窪ませる。高原から取り寄せた卵、硬い殻をトントンと音を立てて割り、こんもりと盛り上がるオレンジ色の黄身に感激しながら、白いご飯の上にすべらせる。
今どきの、空気を遮断した小さな容器に入った、国内産丸大豆使用の熟成醤油を数滴かけて。
箸で卵と醤油と白いご飯を緩やかに絡めて、頂きます。…
刻み海苔やわさびはお好みで。味噌汁とお漬物、和え物を脇に置いて、卵かけご飯を頂くのです。
b).森の朝は早い。まだまだ暗いさなかに、木々の葉が鬱蒼と生い茂る道を、大きな籠を1つ持って、川音が微かに聞こえてくる方角へ進んでいくのです。
小一時間。湿り気のある枯葉を踏みながら進んでいくと、そろそろ森の木々の間に白白とした色が漏れ始める。川ベリを歩いて上流へ向かうと、視界が急に広がる場所に出る。そこで太陽を待つのです。水面には、同じように朝日を待っている魚が集まりだし、銀色の背を翻しているのです。
一筋の光を合図に、昇り出す太陽。その瞬間に金色の光の溢れ玉を、1つ2つ3つ…と籠に入れるのです。…そして朝来た道を、急いで帰ります。遠くで飼い犬が鳴いています。
森の家には、3人の家族が住んでいます。
途中の町のお米屋さんと、この朝日の卵とお米を交換して帰ります。
私のいない留守に、お米を炊いて待っていてくれた祖母と私の娘と、3人の朝ごはんが始まるのです。
金色の卵を祖母が炊いてくれたご飯に、そっと移します。この卵はお箸で混ぜると、朝焼けのような色に変わっていくのです。娘が小さなお箸で口元に運ぶと、朝焼け色のご飯は、今度は虹の橋のように喉の奥へと吸い込まれていくのです。
朝からのプレゼントのように。何よりも家族の朝焼け色に輝く顔を見たくて、金色の卵を集め続けるのですが。…
少し、変な例文になってしまったけれど、卵かけご飯のリアルさは、どちらも変わりないように思うw。b)は、全くのフィクションだけど、心に残る風景としては、心の記憶箱に入れそうである。
フィクションであるが故に、伝わる風景。人の脳はそんな安らぎと想像が好きなのかもしれないと思ったのです。Arim