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“ゆらぎ“についての断章…
ゆらぎの美、というものに惹かれる。
風然り、心然り。
宇宙原理を、螺旋階段のごとき、
螺旋状の回転と想像すれば、
この星に住む私たちを包むものは
ゆらぎ、と捉えてみたくなる。
固定しない場所、そこが時間と空間の
交わる1点。常に変わる真実の1点。
私たちはそこに立ち、物を考える。
永遠とは連なりである。
恋人の言ったこと、愛する人の優しい
表情が永遠なのではない。
花が3分咲き、7分咲きした地点が
永遠に続くわけではない。
花の1分咲き〜10分咲き、
そして枯れ朽ちて
土に眠るまでが永遠である。
その時間は、ゆらぎである。
何故風が起きるのか、
1つには、地球が自転しているから、
気流が発生するためであろう。
そして、温度の高低があるため
空気はゆらぎ動くのである。
おとぎ話なら、空で、
見えない大きな龍がふーっと息を
送っているのかもしれない。
ゆらぎとは、そんな実は神聖なもの
かもしれない。
しかし、時間の支点のみが、
そのような風に飛ばされることは無い。
ゆらぎは、そんな時間を形容するように、
意味づけするように、
回転してみせるだけだ。
真反対なことは、ゆらぎが
関係付けてくれる。
闇と光は風が行ったり来たり、
その扉を開く。
あえて、だから
アンビバレンツを大事に思う。
好きと言ったら嫌い。
黒と言ったら白を。
男と女
老人と子供
晴れた日と雨の日。
どれもが親しげに理解できそうに、
そしてあくまでも対極に
座りながら、想像という力で
繋がりを持ち始める。
ゆらぎ、という揺れる吊り橋である。
想像という架け橋である。
ハミングのような語りかけである。
言語ではない、風の目である。
その風をもあやつる、
鳥の自由な羽である。
Arim
#エッセイ