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水の滴るところからの断章

水は川上より川下へ流れ行くと言うけれど、下とはどこだろうと時々思う。

この川の上流は東に見える山の奥、私が土手に立つと、左から右へ流れていく。
私にとってこの川の川上とは左。そして私が立つ目の前、正面に広がる水は現在。過去から未来へ流れていく水の流れがここにある。
どちらも現在へなだれ込む水流であると思うのだが。

左から右と時間を連れ立ち水は流れる。
時計の針を水車のように、この川に置いて回してみたい衝動に駆られる。
時間はカタンカタンと音を立てて流れていくだろう。

川にいると、時間を手にしている。
時間という水流に手を触れてみて。過去はどんな音だろう、と思う。水は浸した手の形を追い抜いて流れていく。
だが、手は水を掬うこともできる。葉っぱの上に乗せてみることができる。

流れと離れ離れの水は、丸く水玉を結ぶ。時を閉じ込めて丸い鏡になる。
球体は全方向が時間だ。包み込む時間は流れ出したりしない。記憶という永遠の水の風景ができる。
露を結びたがる水の習性は、郷愁なのだと思ったりする。水が抱くノスタルジーだ。

水の故郷とは空である。空から降りてくる水には未来形しかないが、地上から仰ぐ水玉は、その透明な丸い包みに、空の記憶を抱えている。
過去と言ってしまうにはあまりにも透明な、いつかの記憶と名付けたい球体。夢と言ってもいい水の粒子だ。

深夜に水道をひねる。水を飲みに立ち上がってみる時がある。水の夢を見てみたいと、生命の微かな記憶が思うからだ。


#詩    #現代詩  #エッセイ

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