続・その右手に忠誠を誓わせてほしい
あー、最悪だ。家に帰るの遅くなっちゃうなあ。
腕時計を見ると22時を過ぎていた。
目頭を押さえながら、よろめく脚を叱咤激励させる。
よろよろと立ち上がるあたしの目の前で強面の青年がほくそ笑んだ。
予備校帰りでくたくたのあたしを襲ったのはこの青年―叔父さんだった。
叔父といっても年齢はあたしのちょっと上ぐらいだし、その実態はまだ社会にも出たことのないしがない大学院生。
親の権力無しでは何も出来ないすねかじりで、節操なしで、兄―あたしのお父さんにも平気で暴言を吐くダメな大人だ。
「瑞穂」
うるさい。
「もう諦めて帰ってこい、瑞穂」
うるさい。
「いつからそんな意固地になったんだよ瑞穂」
その声であたしの名前を呼ばないで。
―
本家の一人娘だからって何にもできないわけじゃない。
そもそも本家って何なの。別に特段由緒正しい家系でもないでしょ。
ただド田舎にやたらばかでかい家があって、親戚も近所に住んでいる。ただそれだけの普通の家庭。
学校で何があったか、あたしがどんなことをしたか、なぜか何から何まで知っているお母さん。
あたしには全く無関心で、娘なんかまるで眼中にないお父さん。まるであたしを「そこにいない」ように扱うお父さん。
そう、あたしは過干渉と不干渉の狭間で17年間を過ごしてきた。
お母さんが過干渉だったがゆえに交友関係は当然厳しく制限されたし、好きな人ができてもその好意を伝えることなんて、まして話しかけることなんて到底できなかった。
「だめよあそこの子は、都会から転校してきた家じゃないの」
そう言ってお母さんはあたしの淡い初恋を踏みにじった。
別にいいじゃないの、どこ出身でもいいじゃないの。
歯向かおうとしたって、どこからかあたしの動向を監視しているお母さんを眼前にしてはなす術もなかった。
この人でなし!何回泣いたことか。
その一方でお父さんは終始無関心。
授業参観なんて一度も来てくれなかったしあたしの名前を呼ぶことだってほとんどない。テストで100点を取っても何も言ってくれなかった。
あたしが髪を茶色く染めたときもそうだ。何も言わず、こちらを一瞥することもなかった。その視線は虚空を眺めているだけ。
あたしが男だったらお父さんはもっと別の反応をしたんだろうな。
お母さんはいつものようにこっぴどくあたしを叱ったけど、あたしはただお父さんに見てもらいたかっただけだ。居心地が悪く、悲しくもあった。
だから半年前、そんな環境に嫌気が差してあたしは必死で家から逃げた。
夜中にこっそり準備しておいたボストンバッグを持って親友のお姉さんが運転するバイクに乗って逃げ出してきた。お母さんでも流石に親友にこっそり渡しながら貯めてきたお小遣いの存在までは知らなかったみたい。
そりゃあそうだよね、一見ちゃらちゃらしていても中身は臆病なあたしが、親友とそのお姉さんと結託して脱出作戦を練っていただなんてお母さんは考えてもいなかっただろうね。
東京に逃げるための片道切符。そして、あたしを東京で唯一匿ってくれそうな人、親戚のお兄さんの今の大まかな住所が記されているメモ。
この2枚がある限りあたしは自由でいられる。そう思った。
友達には申し訳なかったけど、学校のことなんてどうでもいい。
将来なんてどうでもいい。自分で歩めばいい。東京に出れば、何かが変わるかもしれない。
まずは抜け出すことから始めなきゃ。飛び乗った電車の扉が閉まった瞬間、心の奥底から喜びが湧き出てくるのを今でも覚えている。
―
そしてあたしは慶さんと一緒に暮らし始めた。
あたしはだだっ広くて誰かにいつも監視されている家なんかより、無茶言って住まわせてもらっている今の小さな2DKのアパートの方が好きだ。
慶さんは「分家の人間だし、ほら、いくら親戚とは言えど女の子なんて匿えないよ」なんて戸惑っていたけど、慶さんは知ってたはずだ。
あの実家が、あの地域が、とてつもなくヤバい場所だということを。
互いに枷をつけて監視してないと不安になる街。
おばあ様は、実際あたしにもお父さんにも、義理の関係なのにお母さんにも枷をはめていたようなものだ。
おばあ様はお母さんがあたしを産んだ時、お母さん本人の容体よりもあたしの性別のほうが重要だと病院へすっ飛んでいったという。
しかもあたしの姿を見てすぐに踵を返したらしい、本当に笑っちゃう。
だからお父さんも多分あたしが女だと知ってがっかりしたのだろう。
幸か不幸か、あたしには妹も弟もいない。あたしが、本家を終わらせることになるのかもしれない。
そんな復讐心にも近い、薄暗い悦びを感じていた。
慶さんはごく普通の会社員。年齢は教えてくれないけど多分25歳ぐらい。
実家通いで地元のちょっとした大学を卒業した後、忽然と姿を消したらしい。
風の噂で東京で一人暮らしをしているという情報までは掴んでいたものの、慶さんの両親とも音信不通になっていた以上、こちらから居場所を突き止めることはできなかったという。
当時、最後に会ったのが法事の時。あの時あたしはまだ中学校を卒業したてだったし、そもそもあたしたちは遠い親戚だったこともあってあまり会話も交わさなかった。…よく慶さんはあたしを受け入れてくれたものだ。
あたしが慶さんのきちんとした住所を突き止めたのは東京に潜伏して三日目のことだった。ありがとうネカフェ。インターネットの世界で慶さんの足跡を見たあたしは藁をも縋る思いで追いかけたのだった。所持金も尽きかけていて危うく警察のお縄にかかるところだったのを覚えている。
あたしを見るなり慶さんはひどく驚いたけど、何だかんだであたしを迎えてくれた。
「むさ苦しい家かもしれないけどいらっしゃい」
これがあたしの二番目の恋になるなんて、当時は思いもよらなかった。
慶さんのご飯はおいしい。実家のご飯も美味しかったけど、慶さんのご飯は「温かい」。
いつもこちらを優しく見つめる切れ長の瞳はいつも澄んでいて、思わず見とれてしまいそうで、その様子を見た慶さんはにこっと微笑んでくれる。
これが恋なんだなって自覚してからはもう楽しくも苦しい毎日だった。
毎日死んでしまいそうだった。幸せで殺されてしまいそうだった。
幸せがあたしの首を絞めていくような感覚を覚えた。
慶さんはいつでも笑っている。
仕事が忙しくて疲れている時も笑っている。
あたしの目を見てくれる。
それだけで上京した意味があった。
そして新たな目標もできた。
大学に進学しよう。奨学金を借りてでも大学に行こう。
まずは大検に合格するために勉強しよう。
大学に合格したら、慶さんに告白しよう。
慶さんの好きな女の子になろう。
そう思ってバイトで稼いだお金で予備校に通いだした矢先だった。
(続)