230626 距離
数年前に家を買った。もちろん、35年ローン。
返し終わるころには、自分がどうなってるのかなんて、てんで想像がつかない。
できることなら、それはそっと蓋をしておいて、考えたくはない。
残額は、もはや天文学的な数字にしか、今のところ見えない。
そんな、負債マイハウスは、自分の仕事先とは少し離れた郊外に買うことにした。
理由は、実家が近い、見知った土地柄など、あげればキリがないのだけど、一番の理由は、都会との距離だった。
高校生の頃、これでもか!という都会の高校へ、毎日1時間かけて通っていた。
毎日が、キラキラしていた。
学校自体も楽しかったけれど、終わってからの街は刺激ばかりで、そこから、本当の1日が始まるような感じ。
そのせいもあって、将来自分は都会に住まなければいけない!という疑う余地のない思い込みがあった。
でも、歳をとるにつれ、仕事先がどんどんと都会の中心になっていって、気がついたら都会の一部となった自分の姿が、もう、見えなくなっていた。
仕事場にもすぐにいける。
寂しくなってもちょっと歩けば、同じ匂いのする人がわんさかいる場所がある。
傷だって舐めあえる。
朝寝坊したって職場には、10分でいける。
楽しいことを見つけようと思えば、どこにでも落ちてる。
大丈夫、完璧。
そう思っていたときには、もう自分は池の底に微かに見える、魚影のように、何者なのかわからない状態だった。
何が、間違ってるのか?
都会に酔倒している自分か?
そうさせる都会か?
色々考えてるなか、あるきっかけをもとに、一度郊外の実家に戻ることになった。
しばらくの間、そこにあったのは、退屈の洪水と不自由の嵐だけだった。
あんなに完璧だったものが、風に吹かれるようにピューっと飛んでくのが、恥ずかしいくらいにわかった。
ただ、不思議と慣れるのに時間はかからなかった。
慣れてしまえば、なんてことはない。
酔っ払って風呂に入るのめんどくさいけど、入っとこか。くらいのもんだった。
やりたくない。
でも、やった方がきっと良い。
なんてことはない。やる気になれば、今まで通りに生きていける。
そんな生活が、身に沁みてきた頃。
ある日、職場から「急病人がでた。休みだけど、すぐに来てくれ!」と連絡が入った。
正直、行きたくないと考えながら、渋々答えた。
「着くまでに、90分はかかるけど、大丈夫ですか?」
「できるだけ、急いで来て欲しい」
「では、近くに住む〇〇さんに声をかけてみては?」
半分は、利己のため。
半分は、仕事先の平安のため。
そんな気分で、無意識に返答していたんだと思う。
結局、近くの〇〇さんが、代わりに向かうことになった。
そうか。
ようやく気づいた。
あの完璧は、都会と物理的距離のない場所にいてこそある完璧であって、そのゼロ距離の中にある、自由さゆえの不自由さに縛られていたのだろうと。
しばしば、心の距離と表現されることがある。
でも、それって嫌なこと、辛いこと、進んでできない事との物理的距離がちゃんとないと、心どころではないのでは?
と、今は思う。
その平穏を、完璧を欲しくて、僕は郊外に自分の望む都会との距離と、天文学的ローンがついた、マイハウスを買った。