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伊志嶺敏子さん vol.05

4.幼少期と父母

 伊志嶺さんは、本当は昭和22年(1947年)12月29日生まれだという。当時は数え年で年齢を数えるので、出生後たった二日で2歳ということになってしまう。たとえ同い年の子でも出生日の数ヵ月の差は幼少期には身体能力などにおいて大きな違いとなって表れることがある。それを憂いたのだろう。歳の暮れ生まれはかわいそうだと母方の祖父の発言により、親戚の助力もあって戸籍上は翌年の1月20日生まれになっているという。

 どのような幼少期だったのだろうかと、伊志嶺さんの両親についても伺った。父・恵典さんは数学が得意科目だったという。旧制宮古中学を卒業した後、強みを活かして山梨高等工業高校に入学した。ところが、レベルの低さにガッカリして、夏休みに一高(※第一高等学校:現在の東京大学教養学部等の前身)を目指して受験勉強を始めた。一次合格をしたものの二次試験で風邪を引き、風邪薬のせいで試験場で寝てしまい不合格になった後に赤紙によって兵隊として招集された。戦禍の激しくなるなか上官に恵まれたこともあって帰郷を許されことで生きて故郷に帰ることができたそうだ。戦後に代用教員として勤め始めるも、低収入のため家族を養うには厳しい時代だった。そこで名護の沖縄外国語学校に通ったという。沖縄外国語学校というのは、戦後初の高等教育機関で沖縄文教学校という教員養成所から独立した外語部門のことで、翻訳官や通訳官を養成したという。米軍統治下にも関わらず英語学校という名称にしなかったのは「英語に特化せず、スペイン語やフランス語など諸外国語も扱うという将来像を込め」て「外国語」という名称だったとのこと。卒業生には故・大田昌秀元沖縄県知事など戦後を牽引する人々を輩出した。名護に通ったとのことだから1948年に設立された沖縄外国語学校の名護分校のことだと思われる。その後に米国軍政府(後に米国民政府)に通訳として勤めていたそうだ。

 伊志嶺さんは通訳をしていた父に連れられて見たアメリカ流の生活風景が幼少期の原体験になっている。
「あの時代だから、職員の家族もみんな含めて民政府のパーティーに招待があるわけですよ。私もまだ小学校上がる前だけど、自分の周辺と違う風景を見たわけでしょ。ツーバイフォーで壁が白くペンキで塗られたオフィスや宿舎。ちょっとした斜面地だけど、うまく利用して配置されていました。沖縄でも野生化してるグラジオラス、白い百合が一斉に咲き出すでしょ。草地の中に咲いてるのと花壇の中でびっしり赤い花壇、白い花壇っていうのがあって、へぇそんなふうなこともできるんだと。まるで別世界でした」とフェンスの向こう側の思いを語る。

「そのアメリカ人の上司たちが転勤で本国に帰るとき洗濯機だとか車だとかをうちの父にくれるわけ。あの頃の洗濯機っていったら円筒形の形状していて、中にプロペラみたいなスクリューがあってね。洗濯機をうちの母が動かしてお父さんのワイシャツやらシーツやら洗っていました。シーツはローラーで脱水してました。ワイシャツを一旦取り出して洗濯板の上に乗せて襟のところだけブラシで洗ったり。母が洗濯してる姿を私はじっとそばで見ていて「洗濯機ってそんなに汚れ落ちないの?」って尋ねたら「いやいや違うよ。アメリカの人は、毎日着替えるから汚れがあまりつかないけど、お父さんのは2~3日着てるから、そこに脂がつくのよ。そもそもアメリカの人ってのは、化学繊維を着てるから洗濯で汚れすぐ落ちるんだよ」っていう会話をしてました。食べ物にしたってカーキ色の軍用の缶詰を分けてもらってね。卵のパウダー状のものもあった。だから早くからアメリカの製品を口にしてたわけ。日常の違いを見ているわけです」

 伊志嶺さんの母・マサさんも小学校の教員として勤めており、その縁で父・恵典さんと知り合い結婚したとのこと。「元々うちの母も、小学校の教員をしてたのですけど。うちの父は一人っ子だったこともあって、共働きをして子どもを育てるのは淋しい思いをさせてしまう残念なことだと思ってたみたい。それで新学期前にうちの父が勝手に母の辞表を出したわけ。当人としは絶対続けたかったはず。もう夫婦喧嘩になったはずだけど。うちの父が説得したのは「あんた人の子を育てるより自分の子をちゃんと育てなさい」とか言ってね」

 教員を続けられなかったこともあってか、教育熱心な母だったという。「うちの母はね。第一子の長女として育ったものですから、子どもたちを統率するのが得意でした。「台所で自分がバタバタと働いているのに、それを見て知らん顔をしてることは絶対許されない。蚊帳の外でいることは人間として最低だ」と。この「網の外」を宮古の言葉でアンヌプカて言うんですよ。アンヌプカでいることを人間として最低だと怒りまくるわけ。見て見ぬふりは人間としてダメだと」と伊志嶺さんは当時を振り返った。

「子供の頃から母親と一緒に裏方の台所作業をしてました。また母は器に凝る人でした。あり合わせのものじゃなく、ちゃんと一式揃える気質だった。だからやかましかったですよ。この料理にはこの器。並べ方はこんな風にやらないといけないとか。例えばね、チャンプルーだって鉢に持ったら山高に盛るんだと。それは多分彼女が女学校時代に覚えたものだと思うんですよね。来客の多い家だったのでパタパタしてるともうお母さんが苛立ってね。「もう気を利かせなさい。工夫するんですよ。こんなことでは体裁が悪い」と、この三本柱で鍛えられましたね(笑)。母から課題をいつも突きつけられて「気が利いてよかったね」とか「この盛り方を体裁良いよ」などと褒め言葉もまたあるから、それでまた頑張っていました。美しいものに対する目線がそこで育ったのかなと思います」

 伊志嶺さんの設計事務所内は、多くの本で囲まれている。これも母の影響があるという。母には「本は安い」のだと教えられ続けたとのこと。私も大いに賛同した。筆者や編集者が本一冊の出版にかける年月と労力を考えたら、読書にかけるコストはかなり安価だ。そう思うと数ヵ月かけて難読本に挑戦する気持ちが楽になったことがある。とはいえ、たくさんの本の管理に困らないかと私も抱えている悩みを伊志嶺さんに聞いてみたところ「そのうち、宮古島に私設図書館でも開きたい」と夢を語ってくれた。

さまざまな本で囲まれた伊志嶺敏子一級建築士事務所内。


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