伊志嶺敏子さん vol.08
宮古の風土を翻訳する
「平たい」というのが、飛行機から宮古島を眺めたときの感想だった。起伏に富んでいる沖縄本島に比べるとなだらかだ。宮古島に降り立ってみて、車でめぐってみても山々の輪郭がなく遠くまで見通せる。その分だけ空の面積が大きくなるので、青空が身近に感じられた。ただし、島が全体的に平らということは、強風を遮ってくれるものが少ないということだ。いつも台風の被害が大きいというのも頷けた。
それに昔から水の確保にも悩まされた土地だった。農業用水は地下ダムが出来てから多少マシになったのだろうけれど、それでも苦労は多いらしい。伊志嶺さんが農業従事者に教えてもらった話によれば「宮古の土は乾燥が速い」のだという。珊瑚礁が隆起して形成した宮古島の表土は薄く、その下層は隙間の多い琉球石灰岩の岩盤だ。土壌の保水力は弱く、水は直ちに浸透していってしまうようだ。「他の島では耕して2、3日放置してから植えても根付くのに対して、イモの苗は耕すそばから植えなければ根付かない」とのことだ。
だから「宮古人は合理的」なのだと伊志嶺さんは言う。合理性を追求して効率的に作業をしなければ乾きの速い土の上では暮らせなかったというわけだ。
宮古島でも古くからある二つの集落、狩俣集落と久松集落を伊志嶺さんに案内してもらった。狩俣集落は島の北東にあり海からの寒い北風が強い場所だが、海に沿った小高い森が防護林になっている。ぐるっと回って海側に出ると御嶽があったので、当初は海側で村立てして森の反対側に移ったのかもしれない。集落構成は本島の集落に似た田の字型の道で蔡温による政策以降にみられる構成だ。とはいえ真っ直ぐな道はなく少しずらしたり緩いカーブを描いている。風の勢いを削ぐための工夫だと言われている。この工夫は久松集落が顕著だ。田の字型の集落構成ではないので、蔡温の施策以前の古い集落構成が残っているのかもしれない。
こうやって集落を見ていると、さまざまな災害に対して住宅単体で耐えているわけではないことが理解できる。住宅のまわりにフクギを植え、石垣を積む。集落単位では、抱護林や道の形状を工夫して風を削ぐなど。それぞれが緩衝帯(バッファー)となっている。海のサンゴ礁も津波などの勢いを削いで和らげてくれる。沖縄の伝統集落は、入れ子のように何層もの緩衝帯によって護られている。
伊志嶺さんは緩衝帯が備えている性質として「ポーラス(多孔質体)」という表現もよく使うが、サンゴや石灰岩のようにたくさんの小さな隙間を持っている形状を指す。ネズミ一匹通さないような壁として閉じるのではなく、ポーラスな緩衝帯によって勢いを和らげる構成になっているというのが伊志嶺さんの主張だ。
「オーストラリアのサンゴ礁群をグレートバリアリーフと呼んでいるけれど、グレート〈バッファー〉リーフと呼ぶべきで、西洋人は波を受け容れつつ緩やかにする緩衝帯(バッファー)であるという意識が弱い」とも話してくれた。
伊志嶺さんが沖縄の風土や伝統住居を学びなおし始めたのは、本土から帰郷し設計事務所を始めてからだという。とある住宅プランで、アプローチを北側からとることで南面する庭を大きく確保するプランを提案したが、南側からのアプローチにこだわるお施主さんがいたという。当初は、なぜ南入りにこだわりがあったのかわからなかったが、伝統住居の構成を見たときに、それまで続けた住まい方の意識が残っていることに気づいたそうだ。
この南入りに対するこだわりの逸話に関係しているのかわからないが、沖縄大百科事典にて「ウマヌファーヌカン(午の方の神)」という項目を見つけた。
沖縄本島においても方位では南と東が貴ばれる。伝統木造住居の表座である一番座、二番座も主に東側から数える。ウマヌファーヌカンもそういった方位信仰のひとつなのであろう。ただし、当時の集落の人々の方位観は集落ごとに地形によって異なっている。真北や磁北を基準とした方位に限らないようなので注意が必要だ。
その土地の素材と技術、そこで暮らす人々の関係性や風俗。伝統住居のスタイルは、その土地の風土に沿うよう長い年月をかけた工夫によって形成され残ってきたものである。私が話を伺ってきた他の建築の先輩方も、それぞれの観察眼によって得た学びを伝えてくれている。そのなかでも伊志嶺さんの読み解きは、敷地だけではなく、集落をこえて、島レベルを含めた関係性を考えているように思う。
「緩衝帯(バッファー)の考え方を発展させたときの究極は、「万国津梁」という言葉ではないかと思ってます。まわりの国を受け入れて、交易していくよっていう意味でしょ。受け入れて和らげるというような言葉だなと思うと、緩衝帯っていうのは私たちのアイデンティティの元をなすものではないかとさえ思います。だから辺野古の海を埋めてサンゴ礁を失うっていうのは人権問題だとさえ思ってるわけ」
緩衝帯に手をつけるとき、産湯と一緒に赤子を流すことがないよう考える必要がある。
私からも緩衝帯の好例をひとつ添えよう。
日本本土においても、海岸線の植生には松が多いのはご存じだろうか。丹後の天橋立、三保の松原、佐賀の虹の松原などは景勝地としても名高い。岩手県陸前高田の高田松原は、3.11の東日本大震災による津波被害に遭ったが、それでも残った奇跡の一本松が有名になった。このような松林(主にクロマツ)のほとんどが江戸時代にとある目的で植林されたものだ。その理由は「飛砂」から護るための防砂林だった。
江戸時代は建材だけでなく燃料にもなる木の伐採が多くはげ山ばかりだったから土砂崩れが頻発していた。川を渡って海へと流れついた土砂は海流に乗って砂浜に打ち上げられる。その砂が強風にのって村々を襲っていた。飛砂害は現在の私たちには想像しづらいかもしれない。記録では一日で家が半分ちかく砂で埋もれることもあったという。松原は、そんな飛砂からの緩衝帯として植林されたわけだ。3.11では津波被害の緩和にも効果があったことがわかっている。さらに言えば、山の土砂崩れと海の飛砂害が関連しているというのも、海だけを見ていてもわからない。構造的に考えないと思い及びにくいつながりだろう。
建築家の室伏次郎さんが宮古島に訪れたことがあり伊志嶺さんは自身の設計した建物含め案内したことがあるという。風土について同じ話をしたのであろう。室伏さんは「伊志嶺さんは、風土を建築に翻訳してるね」と語ってくれたそうだ。