【フランス】ジェルミニー・デ・プレ礼拝堂
場所:ジェルミニー・デ・プレ、ロワレ県
時代:806年(カロリング朝時代)
ジェルミニー・デ・プレ礼拝堂 (Oratoire carolingien de Germigny-des-Prés) は、806年にオルレアンのテオドルフ司教の指導の下、ガロ・ロマン時代からの別荘の跡地に邸宅の一部として建てられました。隣接するサン・ブノワ・シュル・ロワール修道院の院長でもあったテオドルフはスペイン人で、シャルルマーニュ大帝のカロリング朝宮廷で最も高名な文人で、大帝が最も信頼した顧問のひとりでした。ジェルミニー・デ・プレ宮殿のカロリング朝建築は、一般的にシャルルマーニュ大帝のアーヘン宮殿をモデルにしていました。しかしこの礼拝堂を除くすべての建物は、建設されてから1世紀も経たないうちに、この地に侵入してきたヴァイキングによって破壊されました。
礼拝堂はテオドルフ司教の命により、アルメニアの建築家オド・ド・メスによって設計・建造され、805年に完成、翌806年に献堂されました。彼はフランク王国内に住んでいたアルメニア系フランク人で、礼拝堂は彼の祖国アルメニアの母教会であるエチミアジン大聖堂の影響を受けていると言われています。また建物には、当時のフランス建築では珍しい馬蹄形のアーチがたくさん使われていますが、これはテオドルフの出身地スペインの西ゴート族の慣習に由来していると言われています。よって同時代の建物であるアーヘンのパラティーナ礼拝堂やラヴェンナのサン・ヴィターレ教会とは、建築的にもかなり異なっていて、西ヨーロッパの教会のかなり初期段階の形態が残った珍しい例で、フランスだけでなく西ヨーロッパの古い教会の大半を占めるロマネスク様式よりさらに古く、おそらくその建築様式の発展に貢献したと考えられています。
東側の中央後陣には、契約の箱の上に2体のケルビム(智天使)を描いた豪華なモザイクがあります。モザイクの下には、テオドルフが2行の碑文を刻んでいます。モザイクはガラスの立方体と色石で作られていて、主に金、黒、青色をしています。そのスタイルは、ギリシャや中近東、そしてテオドルフも訪れたことがある5世紀のローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会のモザイクとの類似点が見られます。モザイク画の主題は「契約の箱」で、上部中央には星空の領域があり、そこから「神の手」が降りています。2体の天使が両側に立っていて、翼を合わせた天使たちは星空を囲み、箱を見下ろして手を伸ばしています。契約の箱は伝承の通り、運ぶための横木が付いた金色の箱として描かれています。このモザイクは、フランスで唯一現存するビザンティン様式のモザイクですが、天井の他の場所にもモザイクの痕跡があることから、より広範囲にあった装飾の一部であったことがわかっています。モザイクが保存されてきたのは、フランス革命時に漆喰で塗りつぶされたためで、1820年になって再発見されました。よってこのモザイクは、8世紀から9世紀にかけてコンスタンチノープルの東方教会を揺るがし、西方のカトリック世界にも影響を与えたイコノクラスム(聖像破壊運動)の時代に残された、数少ない芸術作品のひとつとなっています。
その後、礼拝堂は854年に火災で被害に遭い、856年と865年にはヴァイキングの襲撃を受けたにもかかわらず、9世紀まではほぼ無傷のまま残っていたようです。1060年から1067年にかけて、サン・ブノワ・シュル・ロワールの修道院長ユーグ1世は教会を修復して修道院の一部とし、13世紀には教区教会となりました。さらに15世紀から16世紀にかけて身廊が追加されましたが、このころから建物はもはや単なる村の一教会に過ぎない状態になってしまいました。その後19世紀の身廊が西側に拡張され、鐘楼が建てられました。礼拝堂は1840年に歴史的建造物に指定され、1867年に修復が開始されました。しかしこの修復は、「無慈悲で無知な修復」と表現されているように、残念ながら多くのオリジナルの特徴が破壊されていました。カロリング朝の石積みの多くが交換されてしまい、東側の2つの後陣は取り除かれ、タワーの上にはドームが追加され、ほとんどの石柱の柱頭は交換されてしまい、残っていたスタッコ装飾の一部は破壊されていました。そして1876年にはほぼ完全に再建されたこの建物は、ロワール渓谷の自然地域とともに文化的景観のひとつとしてユネスコの世界遺産に登録されています。
この礼拝堂は、位置的にはロワール川沿いにオルレアンの東約30kmのところにあり、これまでに2007年と2016年の2回訪れました。ジェルミニー・デ・プレの村は小さく、礼拝堂以外に見るものはありませんが、近くのサン・ブノワ・シュル・ロワールの町は、上記のように大きな修道院(フルーリー修道院)があり、ロワール川沿いということで歴史的な見どころも多くとても静かな町で、2007年訪問時にはここに宿泊しました。その代わり、有名な観光地ではないためレストランとか店は少ないですが、結構いい地元のフランス料理店で食事を楽しむことができました。私の旅行スタイルは、ヨーロッパの田舎町を車であちこち走って、史跡や風景を楽しむというものなので、ここにはもう2度行きましたが、また訪れたい場所のひとつとなっています。