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【フランス】Aula Carolingienne (ドゥエ・ラ・フォンテーヌ城)

場所:ドゥエ・ラ・フォンテーヌ (ポワティエから北北西約94km)
時代:10世紀

城跡の全景

この城跡の発見はちょっと変わっていて、1962年から始まった地元自治体の住宅建設作業中に地中から石積みが見つかったことで工事が中止され、1966年から本格的に考古学的発掘調査が行われたことで掘り出され、地上に現れたものです。この地は地元で「モット・デ・ラ・シャペル」と呼ばれていた墳丘のように盛り上がった土地で、中世には砦が築かれていました。
この地域ではメロヴィング朝時代以来の地下採石場が多く見つかっていて、建築用石材や石棺の生産が盛んに行われており、古くから栄えていた場所でした。現在も近くで当時の石切場跡が博物館になっており、見学することができますが、残念ながら冬季は閉鎖されているため、今回は訪れることができませんでした。

左:建物西側出入口、右:建物南側出入口

建物の構造は約23×17mの長方形、壁面の高さは5~6mで厚さは約1.7mあります。壁の構造は均一ではなく不規則で、大きなブロックから小さなブロックを積み上げたもののほか、部分的にOpus spicatumと呼ばれる、ヘリンボーンのように装飾的に石を積んだ箇所もみられ、これはローマ時代から中世初期の建築の特徴を示しています。この建物には2つの出入り口があり、西側が高さ約3mのメインドアのアーチ、南側に通用口と思われる小さなドアのアーチがあります。また建物の側には井戸跡が残っています。当時、建物内部は2つの部屋に分かれていたようで、それぞれに暖炉が設けられていた痕跡があり、大きな居住用の部屋と小さいほうはおそらく台所だったと考えられています。

井戸跡
左:内部の構造、右:壁面のOpus spicatum

発見時この城は、9世紀初頭のカロリング家の城で、814年にルイ敬虔王(Louis the Pious、在位814~840年)がこの城に滞在中、父であるシャルルマーニュ大帝の死去を知ったと言われている城だと思われていました。しかしその後の研究で、現在見ることができる遺構はルイ敬虔王が泊まっていた城の後に再建されたもので、ルイの城はおそらく930~940年ごろにフランス北部を襲撃したノルマン人(ヴァイキング)によって破壊され、焼失したと考えられています。
現在の遺構は、ルイ敬虔王の城からほぼ100年後、後にカペー朝の祖となったユーグ・カペーを輩出した有力豪族ロベール伯が900年頃に再建したものですが、おそらく930~940年ごろに、配下のアンジュー伯とブロワ伯の争いによって再度破壊され焼失したと考えられています。火災の後は砦に改造され、さらに11世紀初めには建物の上に、5m以上の高さに土を盛り上げた「モット・アンド・ベイリー(Motte and bailey)」と呼ばれる砦(中世初期の城塞の原型)となり、元のカロリング朝時代の建物は地下室として使用されましたが、地上の砦は戦乱により破壊されて盛り上がった土地だけが残りました。元の建物が堅牢であり、さらに長い間地中に埋没していたために、現代にまでその姿をとどめることができたカロリング朝時代の稀有な存在の建物と言えます。ちなみにモット・アンド・ベイリー様式の城で現在も残っている最も有名な城としては、イギリスのウィンザー城が挙げられます。

小山のように土が盛り上がっている
現地の案内板

現在城跡は、道路沿いにあり敷地も広いため駐車スペースに困ることもなく、車で簡単に訪れることができます。ただ史跡案内板はありますが、もったいないことに建物内部は一般公開されていないため、柵の隙間から覗く以外、十分に中を伺うことはできませんでした。私が見学している40~50分の間、他には誰も来ませんでした。城の周囲を歩いてみると、建物の北側はまだモットの名残で小山のようになっていて灌木が生い茂っています。

Aula Carolingienne (ドゥエ・ラ・フォンテーヌ)の位置

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