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【フランス】サン・ミシェル・デ・ギュイユ礼拝堂

場所:ル・ピュイ・アン・ヴレ、オート・ロワール県
時代:10~12世紀

サン・ミシェル・デ・ギュイユ礼拝堂
どこから見ても絵になる、サン・ミシェル・デ・ギュイユ礼拝堂

サン・ミシェル・ダイギュイユ(針の聖ミカエル)は、フランスのル・ピュイ・アン・ヴレ近郊のエギュイユにある礼拝堂です。礼拝堂へは岩に彫られた268段の急な階段を上らなければなりません。この礼拝堂が建てられた岩山は、高さ85mの火山岩栓(火山活動によって噴出口で固まったマグマが侵食によって削られ、火道内の岩栓が地表に現れた塔のような形成物)で、岩栓上部の表面の直径は57mほどです。この特異な地形は、少なくとも200万年前、このあたりが盆地で、そこに巨大な湖があったことによります。湖の底には火山があり、その噴火によってこの地形が形成されました。溶岩は湖底で水に冷やされ、さほど激しくない多数の爆発が発生したことにより、粉々になった溶岩はすぐに水に沈みました。溶岩の破片は複数の層に固まって凝灰岩となり、噴出口の爆発により周辺が崩れ、垂直に近い深い脆弱な崖となりました。

サン・ミシェル・デ・ギュイユ礼拝堂の険しい岩山
岩山頂上にあるサン・ミシェル・デ・ギュイユ礼拝堂出入り口
サン・ミシェル・デ・ギュイユ礼拝堂内部
サン・ミシェル・デ・ギュイユ礼拝堂内部壁画

礼拝堂の最初の建設は、ル・ピュイ・アン・ヴレ司教ゴドスカルクが、962年に聖ヤコブ巡礼からの帰還を祝うために建てたのが始まりです。この礼拝堂は、山頂など高い場所の守護天使である大天使ミカエルに捧げられています。礼拝堂が建設される前には、この岩の上には先史時代のドルメンが建てられており、その後ローマ人によって星に捧げられた神殿が造られました。礼拝堂には、この先史時代のドルメンの石3つが建物に組み込まれていると言われています。二度目の建設は、12世紀になって巡礼者が増えたために拡張されることとなり、身廊、回廊、2つの側廊、彫刻が施された玄関口、フレスコ画、鐘楼が追加されました。鐘楼は近くにある黒い聖母マリア像で有名なノートルダム・デュ・ピュイ大聖堂の様式で建てられました。1429年にはジャンヌ・ダルクの母、イザベル・ロメーがこの場所に祈りを捧げに来たとされています。ル・ピュイはゴドスカルクの巡礼以来、フランスにおけるサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路の起点のひとつとなり、巡礼者は、ノートルダム教会で毎朝7時に行われる巡礼者送り出しのミサに出席し、祝福を受けて出発するそうです。

サン・ジャン洗礼堂出入り口 (10世紀)と狛犬?のような石像

この町には、サン・ミシェル・デ・ギュイユ礼拝堂以外にもうひとつ、フランスにおける初期キリスト教の史跡が残されています。それがノートルダム・デュ・ピュイ大聖堂のすぐ側にあるピュイ・アン・ヴレの「サン・ジャン洗礼堂」です。ポワティエにも同名の古い洗礼堂がありますが、ここの洗礼堂も起源は5世紀末とのことですので、これもフランス最古のキリスト教史跡のひとつと言えます。洗礼堂は5世紀末から6世紀頃に、ローマの敷地内に建てられました。中心部では八角形の洗礼槽が発掘され、洗礼が古くから行われていたことがわかっています。8世紀から9世紀にかけて、彫刻による装飾だけでなく漆喰や絵画も加わり、10世紀からは最初の建物の構造は変更され、18世紀から20世紀初頭にかけて大幅に修復されました。訪れたときは残念ながら閉まっていたため、建物の中の見学はできませんでしたが、10世紀の出入り口と、その前に置かれた一対の動物の彫刻(まるで狛犬のよう)を見ることができました。

サン・ミシェル・デ・ギュイユ礼拝堂 (手前)と聖母子像 (奥)
聖母子像 (左)とノートルダム・デュ・ピュイ大聖堂

この地を訪れたのは2003年9月でしたが、ジュネーブを起点にポワティエ、ボルドーを旅行したときの途中に立ち寄った場所でした。大都市リヨンからだと南西に130kmほどの距離ですが、訪れた当時は東洋人の観光客はまず見られませんでしたが、今はどうなのでしょう。今だとネットでもっといろいろな情報を得ることができるので、日本でも外国人観光客が地方を訪れることも当たり前になっているようですが、フランスでも地方の田舎を訪れる人も増えたんじゃないかと思います。振り返ってみると、ル・ピュイ・アン・ヴレでも道中立ち寄った町や村でも、他にも見ておけばよかったなという場所がたくさんありますので、いつか再訪したいと思います。


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