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【トルコ】ハギア・ソフィア

場所:イスタンブール
時代:6世紀

ハギア・ソフィア
ハギア・ソフィア (側面から)

イスタンブールを観光で訪れた人は、絶対に行くであろう場所のひとつなので、あまりにも有名すぎて説明の必要はほとんどないと思います。私は1995年と2017年にトルコへ行きましたが、2回ともハギア・ソフィア(ギリシャ語でハギア・ソフィア、トルコ語でアヤ・ソフィア)を訪れました。由来を簡単に述べると、現在見ることができる巨大な大聖堂は6世紀の建造になるものですが、もともとこの地には360年頃にコンスタンティウス2世によって建造された大聖堂があったそうです。しかし404年の戦乱によって焼失し、415年に建てられたテオドシウス2世による大聖堂も、有名なニカの乱(532年)によって焼失してしまいました。そこで時の皇帝ユスティニアヌスによって、莫大な建造費をもって新たな設計による大聖堂が建造されることになりました。約6年をかけた大工事が終わり、537年12月の献堂式のとき、その巨大さゆえ、ソロモン神殿にも勝るとの思いから、ユスティニアヌス帝は「ソロモンよ、余は汝に勝てり」と叫んだと伝わっています。そして約900年後の1453年、オスマントルコのメフメト2世がコンスタンチノープルを陥落させたとき、真っ先にハギア・ソフィアに入ったそうですが、あまりにも壮大な建物と美しさに息をのみ、聖堂内の装飾を略奪しようとした兵士を、一刀のもとに斬り捨てたと伝わっています。

しかしその巨大さゆえ、あまりにも重いドーム天井を支えなければならないことから、建造中に構造的な歪みが生じ、またトルコは日本と同じく地震国であることから、537年の後も何度かドーム部分が崩落し、そのたびに再建、修復が繰り返されています。

モザイク画
モザイク画
モザイク画
モザイク画

もうハギア・ソフィアには2度訪れましたが、実はまだ2階の大理石の床に残されている、9世紀のヴァイキングの傭兵によるものとされているルーン文字の落書きを見ていません。9世紀から11世紀にかけてビザンティン帝国の傭兵として雇われていたヴァイキングは、戦闘に長けているため帝国の防衛力として一役買っていたようですが、皇帝はその戦闘能力を恐れ、コンスタンティノープルの町の中に住まうことを許さなかったそうです。西ローマ帝国が、外敵からの防衛のために多くのゲルマン人傭兵を領内に入れた結果、その傭兵から攻撃されて滅亡に繋がってしまったことを学んでのことと思います。初めて訪れたときは、ルーン文字の落書きのことは知らなかったのですが、2017年の2度目のときは完全に忘れていて、帰国後に思い出しましたが、後の祭りでした。次回行く機会があったら、必ず見るつもりです。

大聖堂内部
大聖堂内部 (2階から)

ハギア・ソフィアは1453年にオスマン帝国に征服された後、モスクとして改造され使用されてきましたが、1935年以来博物館として一般開放されていました。しかし2020年7月、トルコ政府はハギア・ソフィア(トルコ語でアヤ・ソフィア)を再びモスクとして使用することを決定しました。基本的にモスクなどの宗教施設は、礼拝の時間以外は内部の見学をさせてもらえるため、ハギア・ソフィアも同様に見学できると思いますが、次回訪れたときにどうなっているのか、楽しみでもありちょっと心配もあります。


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