【フランス】レンヌ・ル・シャトー
場所:フランス南部オード県
時代:西ゴート、メロヴィング朝、カロリング朝?
レンヌ・ル・シャトーとは
レンヌ・ル・シャトーという村は、有名な中世の城塞都市カルカッソンヌから約50km南の風光明媚な山間部にある。19世紀末から20世紀半ばにかけて、この村に派遣されていた司祭にまつわる謎に興味を示していた人以外で、レンヌ・ル・シャトーについて知っていた人はほとんどいなかった。
しかしダン・ブラウンの小説ダ・ヴィンチ・コード(2003年刊、映画は2006年)で一躍有名になった。私がここを訪れたのは2001年9月なので、まだ小説や映画が世に出る前だったが、この話について知ったのは、よくある世界の謎や不思議な出来事について書かれた、ちょっとオカルト的な一般向けの本からだった。このダン・ブラウンの小説の登場人物のひとりであるジャック・ソニエールは、ルーブル美術館長として登場しているが、実際のソニエール(ベランジェ・ソニエール)はレンヌ・ル・シャトー村の教会に派遣された司祭の名である。
この村は現在人口が100人程度の非常に小さい村だが、一風変わった教会と半分廃墟になったような古城がある。古城のほうは17世紀ごろのものなので、村の謎には直接関係ないと思う。あと教会のほうだが、この村を一躍有名にしたソニエール神父の謎を秘めた教会なので、内部には当時の資料や出土品、神父の蝋人形などが展示されている。もしかしたら小説や映画にあやかって、増えたであろう観光客目当てに施設や店などができて、以前の寂れた雰囲気は残っていないかもしれない。
ラングドック地方の歴史
このレンヌ・ル・シャトーがあるラングドック地方には古くから人が住んでいて、石器時代や鉄器時代の遺物も見つかっている。ローマ時代にはナルボンヌを中心として栄え、ローマの衰退とともにやってきた西ゴート族もまた、トゥールーズを都にして南フランス一帯を拠点としていた。その後西ゴートは、北から進出してきたフランク族によってスペインへ追われ、新たにメロヴィング朝フランク王国、そしてメロヴィング朝を簒奪したカロリング朝がこの一帯を治めるようになった。
12世紀になると、カトリック教会やフランス王から迫害されていた禁欲的なキリスト教の一派である、カタリー派がこのあたりの険しい山に城塞を築いて抵抗していた。現在このあたりで有名な史跡といえば、モンセギュール城などのカタリー派の城跡で、今でも登るのが大変な山の頂上に点在している。
現代はというと、航空機産業の盛んなトゥールーズ、地中海に面したナルボンヌ、中世城塞都市の観光で有名なカルカソンヌを除けば、正直なところあとは田舎ばかりといった感じ。カルカソンヌから南の方向にあるレンヌ・ル・シャトーへ行く道に入ると、すぐに農村の風景が広がる。まずリムーからアレ・レ・バン、そしてレンヌ・ル・シャトーのある丘に上がる直前の町、クイザに着く。陸に上がる道は一本道で、邪魔にならないよう車を停めて村を歩いた。私が訪れたのは22年も前なので今はどうかわからないが、そのときは村で出会う人もなく、ようやく教会を訪れて人に会ったといった感じだった。
今はできているようだが、当時は近くにホテルがなかったので、15kmほど南にあるキアンという町で泊まった。高台には13世紀の四角いキアン城(廃墟)があり眼下には川が流れ、古いくすんだ色の町並みと相まって中世の雰囲気がいっぱいで、とても気に入った。そしてこの町を拠点として周辺に点在するカタリー派の城跡を巡った。
レンヌ・ル・シャトーの謎のあらまし
レンヌ・ル・シャトーに多くの人が興味を持つのは、この謎には財宝が絡んでいることに尽きると思う。19世紀末にここに赴任してきた貧しい司祭が、ある日突然立派な教会を改築し、図書館や庭のある豪華な屋敷を建て、その上この村のために道路や水道を整備したのだから、誰しも金の出所が気になると思う。結局彼は、一緒に暮らしていた家政婦以外誰にも秘密を明かさず、1917年に亡くなっている。またこの家政婦も卒中で倒れ、1953年に死去した。
以来多くの人がこの秘密を探るべく、またソニエール司祭の残された財宝を探すべく、調査または違法な宝探しまで行われてきたが、未だに何も見つかっていない。果たしてソニエールが発見した財宝とは、いろいろな人が推測しているがこの場所の歴史を考えると、ローマから収奪した西ゴート族の財宝なのか、その西ゴート族を破って奪ったメロヴィング朝の財宝か、はたまたカタリー派が持っていたという"聖杯"なのか、さらには金銀財宝などではなくイエス・キリストに纏わる重要な情報、例えばメロヴィング王家はマグダラのマリアの血を引く、つまりイエスの子孫なのか(小説ではこのあたりが取り上げられている)といったオカルト的な推理になるが、興味は尽きない。
古代の出土品など
このようにレンヌ・ル・シャトーの歴史が古代にまで遡るという証拠品は、レンヌ・ル・シャトー教会博物館で見ることができる。教会の建物も部分的に中世のロマネスク様式の特徴が残っている。展示物の中に古い祭壇の石柱がある。どうもソニエール司祭には、古い貴重かもしれないものを大切にしようという気持ちはあまりなかったようで、古墓を破壊したり教会を無理矢理改築したりと、村人との摩擦も結構あったらしい。よって祭壇の石柱もしかり、上下逆に「MISSION 1891」と付け足し加工してしまった部分があるが、十字架とアルファ、オメガの文字、唐草模様のような装飾といった西ゴート風のデザインが施されている。ただし博物館の説明によると、このデザインはイタリアから伝わった技法で、8世紀末のラングドックの工房で制作されたものらしく、カロリング朝時代のものだという。またこの柱の穴に謎のメッセージが書かれた羊皮紙が隠されていたということだが、現物は残っておらず真相は不明。他には"騎士の石"と呼ばれている、ソニエール司祭が教会改修時に発見した石版がある。この石版は見つかってから、司祭に祭壇の敷石にされていたこともあって、彫刻がかなり摩滅している。二つのアーチが描かれたデザインのうち、左には水を飲む馬にまたがった人物、右には馬に乗って槍を持った人物(騎士)を見ることができ、8世紀ごろのカロリング様式のものだという。
したがって、西ゴート王国は当時トロサ(トゥールーズ)を都としており、このレンヌ・ル・シャトー付近にも町があったようだが、この教会には西ゴート関係のものはなかったことになる。それにしてもソニエール司祭は、当時あまり考古学的なことには興味がなかったのか、教会改築中に発見した石柱や石板を大切に保護せず、加工したり敷石にしたりしているので、もしかしたら他にも古代や中世の何かを発見していたのかもしれない。
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