劇団サンカヨウ『19→』感想
2024年12月28日(土)〜12月29日(日)「スタジオ空洞」で行われた劇『19→』の感想です。私が観たのは12/29になります。
うまく出来すぎている
正直、観る前は少し舐めていたことを自覚させられた。まぁ2年生の学生作品でしょうと、思ったつもりは一切なかったが無意識下でそう思っていた。もっとはっきりいえば、わからされた。
しかしここまで丁寧なつくりの作品だと感じたのは、私の拙いそこそこの小劇場観劇経験の中でもちょっと見当たらない。セミプロ劇団のレベルにちかいどころか、それを凌駕していると言っても過言ではない出来の良さだった。
一方で、「うまく出来すぎている」というややニヒルで冷ややかな感想も抱いてしまった。これが健全な感想かは正直わからない。
例えば岩松了は「わかりやすいものは客に見せる意味はない」とまで言い切った。また小野晃太朗はわかりやすい主題をわかりやすく伝えることは「歪曲」に他ならず、人間本来の思考法ではないという立場から「複雑でわけのわからない」ものこそ人間そのままの姿を輪郭する、というようなことを言っていた。そしてそれこそが戯曲の戯曲たりえるアイデンティティなのだと。
そういう意味ではこの戯曲は「わかりやすすぎる」し「うまく出来すぎている」と言わざるを得ない。
でもそのようなわかりやすさはある意味で、学校やこれまでの経験で学んだノウハウ、メソッドをとても素直に自分に取り込んだうえでつくったからだ、ともいえる。特に「ゴマってなに」はかなり作者の自己投影が入っていると感じた。
圧倒的に純粋な19歳の演劇学生があらわした、我々には決してつくれないもの、そして彼女らもまたこれ以後は二度と作ることができないもの、なのではないか。
この劇を通して、そんな貴重な瞬間に我々は立ち会ったともいえるかもしれない。
「ほのかの家にて」の感想
もっとも直接的に19歳の少女(女性)のリアルな感情と傲慢さと未完成さが見事に表現されていたと思う。例えば「これは私の記憶である」という冒頭のなんと傲慢なことか。最初から逃げ口上である。これはまさに都合の悪いことは最初から抜けていますよ、という宣言なのだ。
一例として、決定的にノリが違う二人となぜ「仲良し」になったのか?という点には一切触れられていない。そこには独白する彼女の裏にある、打算と狡猾さを看破することは存外たやすい。
蝶よ花よと育てられた少女が大人になる前だからなのだろうか、成長すればおのずとわかっていくことがまだわかっていない。いや、わかっているはずなのに変えられない、変えるつもりが全くわかないという自分に混乱しているかもしれない。そんな成長のちぐはぐさ、主観と客観の決定的なズレ、共感と非共感のはざまをうまく劇として昇華させている。彼女は友達が「気を遣っているような気がする」と告白するが、どう考えても「気を遣わせている」のは彼女自身の方である。
ただ、友人の失恋が単なる導入になってしまっていることに少し違和感を感じた。もっと恋というのはドロドロしたテーゼであって、もしも失恋をあくまで単なる導入でしかないものにするならば、そういう説明的な演出が必要だった。本公演の全体に論理的な聡明さがあっただけにかえって目立ったかっこうだ。あるいは、この独白する少女にとっては友達の失恋なんて「おそろしくどうでもいいもの」であることを示そうとしたのかもしれないが、やや説明不足である。
「冠婚葬祭」の感想
思ったことを思ったように言葉にするとチープに聞こえたり、不謹慎に聞こえてしまうような内容を、「不思議な姉妹」というフィルターを通すことでそのような言語化=顕在化することで何故か起こる変質を回避しようとしている、と感じた。この作家は何かを言いたいけど言えないジレンマをこの劇に託している気がする。
例えば「いじめられる側にも原因がある」と言う言葉は、そのまま実在しそうな誰かに言わせてしまうと酷く不謹慎に聞こえてしまうが、すべてがそうではないにせよそういうケースだって往々にしてあるんじゃないかと内心感じることでもある。しかし現実の世界ではなかなか言葉にはしにくい危険なフレーズでもあるだろう。
もう少しさらに寓話的な表現、あるいはもっと戯曲的なデフォルメを加えれば、例えば異性の幼馴染に対する潜在的な複雑な感情などといったものもかえってもっとリアリティを帯びたのではないか。
そもそも演劇とは言葉ではうまく表現できない何かの表現手段でもある、と言えなくもない。その意味で実に素直な作品にみえた。
「ゴマってなに」の感想
表面的に見えるのはあくまで限りなく18歳に近い19歳の少女たちの姿である。
くだらないやり取りがキラキラと光を帯びる青春の一コマとして淡々と演じられるが、実はそれが最後にすでに失われた青春=限りなく20歳に近い19歳が望んだ虚構だった、という「19歳とは?」という問いに「演じる」という言語で見事に答えた怪作である。
多くの人々は18歳で高校を卒業した後は、地元を離れるなり、就職するなり、それまでとは大きく異なる環境に放り込まれる。そんな状況にもまれながらも新しい交友関係や自分の在り方を構築していくが、一方で過去=高校以前の交友関係や環境との距離はどんどん離れていく。
特に地方から上京して都内の大学に進学した場合は、そのギャップにより巻き込まれてしまうだろう。客観的にみれば止まっているのは地元にとどまり就職するなりした同級生で、上京した側こそ先に進んでいるはずなのだが、むしろ上京した側が「取り残された」ように感じることは住んでいた地方が田舎ほど大きくなる。なぜなら地元にとどまった方がマジョリティだからだ。
テレビの存在
冒頭から暗喩的に演出されるテレビは、これがオムニバス形式であることを説明的かつ論理的に劇中で示す。本稿冒頭で「丁寧なつくり」と書いたのはこのあたりによるところが大きい。さすがに演劇を大学まで学ぶ学生の作品といったところで、こうした演出一つ一つが構造的だ。
またありがちっぽいCMの表現も雑に作られておらず、BGMを含めプロレベル以上である。特にコーヒー缶の歌はふつうにいい歌で、きっとどこかのアーティストの歌だと思い、もう一度聞きたくて後で調べたが、結局わからなかった。あれが自作だとしたらとんでもないことだ。
このような説明的な冒頭とオムニバス間の場面転換をCMを流すという手法でうまく切り替えているのは、もしかして教科書に載っているんじゃないかと思えるくらいお手本にしたい演出だと思う。
やっぱりなと思ったのは、その中の一部(もしかしたら全部という可能性もあるが)がその後の物語の伏線になっていた。「ゴマってなに」の前に出ていた「レンタル友達」のCMはそれまでの「ありそうなCM」と完全に一線を画していたので違和感バリバリでわかりやすかった。本当にこのあたりは「素直」の一言である。
再演を望む
小劇場界隈はまさに玉石混交というか、気を付けないと「打率3割未満」の世界だ。さすがプロと拍手喝さいを送りたいものもあれば、大げさに言うなら始まる前から帰りたくなるようなものもある。
その点、本公演はいろんな意味で「珠玉」の作品と太鼓判を押せる。しかしあまりにも「純粋」であるがゆえに、いい年した大人が演じると途端にチープに見える危険を感じなくもない。これはタイトル通り19歳自身が演じなければならない。だとしたら作者自身すらもう演じることは禁忌で、後輩にゆだねるべきものになるだろう。
今後連綿と続くであろう日大芸術学部演劇学科2年生の伝統になってほしい。それくらいの力がある作品だった。
概要
劇団サンカヨウ『19→』
2024年12月28日(土)~29日(日)
スタジオ空洞(〒171-0014 東京都豊島区池袋3丁目60-5 PROSPERITA池袋B1)
・「ほのかの家にて」作・演出/山中こころ
・「冠婚葬祭」作・演出/柴彩花
・「ゴマってなに」作・演出/佐藤美渚
キャスト
佐藤美渚
柴彩花
山中こころ
スタッフ
演出助手:村田美来
企画制作:野尻夏花/木島拓哉
音響:稲垣凜
照明:高橋朗磨