シニフィエ『ひとえに』観劇メモ2日目
「こまばアゴラ劇場」で行われた劇『ひとえに』の感想です。気になったら2回以上観劇することを是とするスタンスです(1回じゃダメというつもりは全くないのです)。
1回目では気づかなかったことや思わなかったことがメインです。
2024年1月14日(日)18:30~ 晴
代役専門
初日(1/13)のサービスとして、上演戯曲が無料でもらえた(以後1,000円?)ので、開演直前に何気なく1ページ目を開いたのだが、
「アンダー 代役専門」
というフレーズが引っ掛かった。私はすでに劇を通しで見ているので、アンダーという役の存在は知っていたしどういうことを劇中でやっていたのかは知っていたのだが、そこにどういう意味があるかは分からなかった。
「代役専門」というならば、劇中で何かの代役をしているはずだ。今回の劇では1人が何役もやってしまっているので、ある意味全員が「代役」になってしまっており、そこに違いがなかったから、かりに劇中で誰かに成り代わっていたとしても気づきにくいのは仕方ない。意図的かもしれないが…。
こういう劇の利点でもあり欠点でもある。それは偶然なのか意図的なのかわからん(教えてくれない)のである。むしろ偶然だったり問題があったとしても、場合によっては臆面もなく「そういう演出でした」と言えてしまう。
とりあえず観劇2回目の特権として、「代役専門がいつ代役になったか」を意識的にみることにした。結論から言うと、「ここかな?」程度にしかわからなかった。演劇のずるさとでもいうのか。
未熟であること
主役のひとり「思恵」の独白(=劇の導入)のあと、ある1人の女性が別の女性に叱られている場面になる。
あとでわかることだが、彼女らは主役の二人を導き、あるいは支え、あるいは精神的に寄り添う立場の役柄である。しかし冒頭から彼女ら、少なくとも「とまり」側につく「林」はここで未熟であり、非力であることを観客に暴露する。この劇に「強い人なんていないんだ」と印象付けている。
そんなあやふやで頼りない存在にすがらざるを得ない主役の二人。
この物語のすべて
その叱られている場面の後に、団体代表の「都」が主役の「思恵」に面接する場面に転換する。
この面接で語られる言葉をかみしめていると、まるでこの物語全体のあらすじを語っているような感じがした。
「まず、正体が知りたい」(p4/6行)
というその「正体」は
「でも、なかなか尻尾を出さない」(p4/14行)
のであり、そしておそらくこの劇中では結局一度も尻尾を出さずに終わってしまっている。しかし「思恵」はそれでもこうつぶやく。
「わたしはそういうものに、光をあてたい」(p4/15行)
これは、作家自身の言葉でもありそうである。
尻尾を出すどころか顔を出すのは、いつだってもともと弱かった人たちであり、いつか「正体」から見捨てられるようなとりとめのないものたちだ。そして彼らは衝動的で我慢ができず、聞く耳を持たず、攻撃的な言葉しかつかえない、同じ弱い人に他ならない。
「わからない」
この劇中、「わからない」という言葉が頻発することに気づく。彼らは事あるごとに「わからない」とつぶやく。
身の回りにはいろいろな「わからない」ことに満ち溢れており、そして何より「わからない」ものによって動き、そして場合によっては強引に動かされている。
わからないものは思いもよらない「外」から来るだけではないのだ。「内」にだってたくさんある。むしろ「外」からくるものよりも多いほどだ。
「わたしは気高さこそ、目に見えない最も美しいものだと思ってる」(p34/11行)
と言った「とまり」が、じゃあ気高さとは何かと「思恵」に問われたときに答えることができなかったように。
「誰に」(p39/5行)
おそらくこの言葉自体はここでしか出ていないと思うが、先述の「わからない」と近い。
「とまり」の母である「依子」は、志望の方向性に近い文系に進学しなかった理由として「許されていなかった」(p39/4行)と答える。すかさず「とまり」は尋ねるのである。
女性の社会進出が阻まれている時代だったとか、実際に文系を出たところで希望の仕事に就けるかどうかは難しい状況だったとか、そういう浅はかでペダンティックな帰結ではない。おそらく作家は意図的に「わからない」という回答を出させるのではなく「誰なんだろう」(p39/6行)と言わせることで、「正体」の輪郭を示そうとしている。
名前を短くした
代役専門の「アンダー」はもともとはもっと長い名前だった。変えたのだ。
変えるということは、何かを得るためであり、その結果、何かを失うことである。少なくとも新しい名前を得て元の名前を失ったわけだが、言外に何かを諦めたような印象を受けた。
もしかしたら、いろんなことを知りすぎ、そして頭が回りすぎたために、自分のこの先に待ち受けていることを理解してしまったのかもしれない。
「逃げるのは得意」(p37/1行)
活動家と称される「肖像」は文字通りの活動家である。静かにアジテーションしながら、矢面に立つようで矢面に立っておらず、中心にいるようでだいぶ外縁にいて傍観している。それでいて一生懸命頑張ったかのように疲弊した顔をのぞかせる。
彼は結局消えた。その後はどうなったかは分からない。そしておそらくいずれかのタイミングで「肖像」は「アンダー」(=代役専門)と入れ替わっている。
一方で、「コミュニティ」=考えを同じくする人々の集まりにおいて、やはり彼は必要だった。たとえある共通項が見つかって集まったところでそれ以外はバラバラだ。そんなバラバラな存在が集まったら、引き起こされるのはコミュニティには不要な「友情」とか、弱さから引き起こされる「差別」といった人間関係の光と闇である。彼らが曲がりなりにも同じ方向を向いて歩かせるには、「コントロール」は必要なのだ。それが仮に悪意だとしても。
時間軸
あいかわらずこの場面の時間軸はわからない。
場面場面の時間軸がばらけている、あるいはばらけていないけどばらけているように見せている。
劇後にこの劇を書いた小野晃太朗氏に話を聞いたら、しきりに「複雑化させることの重要性」を説いていた。おそらく時間軸をばらけさせるのもこの「複雑化」させる操作の一つである。
力を持つこと、力がないこと
人が力をもつとき、それはまるで新幹線のようだ。きれいなレールが敷かれ、そこを矢のように走ることができる。追従者はみんな喜び、こぞってそこに乗る。その一方で、景色はあまりにも早く動き、周りのものは見えた瞬間に過ぎ去りまるで見えない。必要だと思っていたものが零れ落ちても拾いに戻ることすらできない。止まったら誰も喜ばない。先に進むしかない。進まなくなったら終りだ。
人が力をもたないとき、それは歩き旅のようだ。どこに足を向けて前に出すかは自分で決めなければならない。そのあいだ、知らない人に押し戻されるかもしれない。砂嵐に襲われるかもしれない。雨に降られるくらいならまだいい方だ。しかし、周りをゆっくりと見渡すことができる。落ちたものは拾うことすらできる。いろんな音をききとることができ、さわり、においをかぎ、さわることができる。
切実さ
「あなたの切実さはどこから来ているの?」(p19/14行)
と副代表の「林」は、「とまり」に尋ねる。場面は早い段階から出てくるが、時間軸的にはおそらく事件(p46/22行)後だ。
その背景には、「とまり」の親にあると暗に明かされる。母親である「依子」はまるで父親にあたる人物が原因かのように話すが、その実、
「あの子と私の間に境目はなかった」(p63/11~12行)
と呑気に語っているあたり、この母親にも多分に原因がある。おそらく依存体質。依存体質的な親はたいてい「毒親」である。そしてそのような親にそのような自覚はない。私はそれをありのままに語らせる演出に、作者の静かな怒りを感じた。
「とまり」は生まれた瞬間から奪われていた。そしておそらく「とまり」もまた誰かに依存しなければならない人間だった。だからこそ「思恵」がピアノを続けていたifがないことを何度も喜んだのだ。
観劇後に思ったこと
先述の通り、戯曲を書いた小野晃太朗氏と話せる機会があった。
彼によれば、伝えるとき人は様々な言葉の中からどれか一つを選んで伝えることを紡ぎ出すが、そこでは何かしらの捨象が生じており、歪曲されてしまうという。だからこそ直接伝えずに輪郭だけ示すことができる戯曲に価値があるのだ。輪郭だけ示すことを特に意識したわけではなく、「複雑化」という操作を経て、伝える=単純化とは反転した操作が逆説的に輪郭を示すと考えていた。図と地の関係のように。戯曲にはそういう効果がある。
もともと頭の中にある雑多なものを雑多にそのまま引き出すこと、その可能性に興味があったようだ。そのようなことを語る彼の顔は実に幸せそうであった。