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現代文知識ノート『現文十五の階段』

序章 はじめに


知性とはなにか、レヴィナスというひとは、「わたしは〇〇を知っているという知的達成の累積ではなく、わたしは〇〇について不十分にしか知らないという不能の語法をつうじて練磨される」と説きました。

むつかしいですね。レヴィナスは、つまり、知性とは「なにを知らないかを知っている」と言っているのです。

はたして、あなたたちは何について知らないのか、それを知るために現代文を学ぶのです。
 
一年間をとおして、わたしは現代文を講義していますが、八十分というかぎられた時間のなかで、読解の方法を事細かく伝授しなくてはならないので、基礎知識的な要素、つまりおそらく受験生にとって知らないだろう事項が、じつはおろそかになりがち、というよりなかなか説明できないのが現状です。漢字書き取りに時間をさいている先生もいらっしゃいます。わたしは、おおよそ授業ののこり十分程度で、いまどのような現実が起きているのか、そしてどういうことが問題になっているのか、それを語ることにしています。

学校の現代文とはそこがちがうところです。学校の現代文はそれはそれで必要です。ひとが虎になったり、友人が自殺したり、老婆が二階で死人から髪の毛を抜いたり、富士山をみて「パチリ」と写したり、それは学校で学んでください。
 
大学入試は、その大学の先生が作成します。国語の専門でない方も作成します。また、さいきんでは、外部に発注している学校もあります。わたしの知り合いの予備校の先生は、その発注を受けているそうです。どんなにつついても守秘義務をつらぬいていますが。
つまり、予備校の先生はともかく、大学の教授は、その専門性について存在意義があるので、とうぜんながら、問題もご自身にかかわりのある内容を好んでいるのではないのでしょうか。

明治学院の武光先生なら『円の思想』、都立大学の木村先生なら『憲法の想像力』などなど、もちろん、わたしにそのような深い知識はもちあわせてはいませんが、微力ながらもその入口くらいは受験生に了解してもらわないと、本番で面食らうことになるかもしれません。あ、この内容知っている。これは現場で大きな励みになります。ハイデガー、マルクス、ウェーバー、だれが登場するかわかりませんが、浅く広くの精神でこの拙書を書くことにしました。
 
この拙書は、わたしの一年間の講義ノートです。おおよその概要はこの書で事足りるはずです。ですから、この内容をすべて理解してしまうと、けっきょく、わたしが不要ということになりかねません。だから、わたしにとって、「現文十五の階段」はみずからの首をしめる書物になるやもしれないのです。水戸黄門、徳川光圀が『大日本史』を作成したことが、けっきょく徳川幕府倒幕にもちいられたように。それは、黄門さんが作成してから数百年経ってのことでしたけれど、こちらは、すぐさま、お前、いらないじゃん、ということになるかもしれません。が、ごらんのようにわたしはいつまでこの位置にいられるかわかりませんので、このへんで、あるけじめをとおもい、ここに執筆することにしました。
 
とくに小論文の必要な学校には、小論文の指南書なんかでまなぶことをわたしはとくに否定はしませんが、指導書どおりの書き方だと、すべて紋切型、ステレオタイプの作品ができあがってしまう危険性があるということだけはもうしておきます。小論文は個性です。どれだけ他の受験生との差異があるか、そこが肝心です。どんなタイトルでもいい、むこうのフィールドで闘ったら負けます。こちらの知っている知識にひきこんで、アウェイではなくホームで闘うようにすればおのず道は拓けるのです。そのためには、基礎知識をどれだけ棚に収納しているかが勝負なのです。

そのとき「現文十五の階段」をつかってください。かならず役に立ちます。もちろん、そんなに深い内容ではなく、ごく浅い内容ですが、ここに書かれていることは、まず、高校生ではたどりつけないことばかり(のはず)です。そして、また、ひょっとするとそのまま大学入試の本文にかかわることもあるかもしれません。現にいままで、そういう声も聞いています。そのとき、読んでいてよかったと感じてもらえれば幸いです。

あとは、諸君のリテラシィのもんだいです。適当に読んでふーんとおもうひと、熟読してすっかり身につけるひと、それは入試結果に直接あらわれるものです。

現代文ほど知性的である科目はありません。なにを知らないか、それを知るゆいいつの科目です。え、それ知らなかった、それがいいんです。知的です。

そういう心構え、ケンケン服膺にて、受験をうまく乗り切ってくださいね。
さ、それでは「現文十五の階段」第一章から見てゆきましょう。
 

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