見出し画像

【EP2-3】「伊調弦八の音楽」|アッバンドーネはまだ知らない

Arcanamusicaスピンオフ小説② 「アッバンドーネはまだ知らない」(伊調 弦八&川和 静)

著:衣南 かのん

3.


 バイオリンを始めたのは、四歳の頃だった。


 音楽を始めたのは三歳の頃で、最初に習い始めたのはピアノ。六つ上の兄も、四つ上の姉もピアノをやっていたから、伊調いちょうも二人に続いて先生のもとへ通い始めた。

 だけど四歳の時に連れていってもらった祖父のコンサートで、パガニーニのバイオリン協奏曲コンチェルトを聴いた時に——これだ、と思ったのだ。


 幼かったけれどその瞬間のことはたしかに覚えている。ソリストは若い男性で、力強く、そして情熱的にパガニーニを弾いていた。
 初めて聴く曲だったけれど子どもながらにむしょうに惹かれて、帰り道に両親に「バイオリンがやりたい」と頼んだのだ。


 音楽一家ということもあって、両親も躊躇いなく伊調にバイオリンを与えてくれた。すぐにチェリストである母の繋がりから教えてくれる先生も見つかって、その日から伊調はバイオリンに夢中になった。


 その頃は、朝も昼も夜も、関係なくずっと弾き続けていた。防音室だらけの伊調家の造りも幸いして、伊調がバイオリンを弾くことへの障害は何もなかった。 
 先生が直接家に来てくれることもあったし、両親や祖父の知人の音楽家たちもしょっちゅう家を訪ねて来ていたので、いい音楽を聴くことはいくらでもできた。


 リビングに客が集まれば、ミニコンサートが開催されるような環境だ。伊調も小さな体で、大人たちに混ざって演奏を楽しむこともあった。
 モーツァルト、ヴィヴァルディ、ベートーヴェンにチャイコフスキー、何よりも伊調が最初に憧れたパガニーニ。


 父や姉がピアノで入ることもあったし、母がチェロで参加することもあった。兄はいろいろな楽器に触れたいといって小学生の頃には伊調と同じくバイオリンやヴィオラを習っていたから、兄と演奏することも多かった。
 祖父が楽しそうに指揮をしたり、たまに気まぐれにピアノを弾くことも。

 そんなふうにみんなで音楽を楽しむ時間が、子どもの頃の伊調も大好きだった。



 小学校は兄や姉と同じ私立校に進学した。

 習い事として楽器をやっている同級生も多くて、話をしているうちにどうやら自分の家はずいぶんと特殊らしい、ということも知った。

 入学と同時に先生から勧められてコンクールにも挑戦するようになっていて、あらゆるコンクールで伊調は優秀な成績を残した。
 同年代の中で、日本一の称号を得たことも一度や二度ではない。
 みんなが、伊調を天才だと言った。神童だ、さすがは伊調家の子だと。


「おじいちゃん、見て!」

 伊調弦八いちょうつるや、の名前が入った賞状やトロフィーを、たまに帰国する祖父に見せるのは伊調の一つの楽しみでもあった。

「おお、また優勝したのか。すごいな、弦八は」

 いつもはタクトを握る祖父の美しい手が、弦八の頭を優しく撫でてくれる。その手が、どんなにコンクールで贈られる喝采よりも伊調に誇りと喜びを与えてくれた。


「ねえ、どれくらい上手くなったら、おじいちゃんと共演できる?」

「ん? そうだなあ、まずはもっと大きくなって、それから……弦八らしい演奏が、できるようになったらかな」


 小学校低学年の頃は、まだ身長が低くてバイオリンもフルサイズのものは使えていなかった。
 大きくなって、もっとたくさんの曲を弾けるようになって、もっともっと上手くなったら。そうしたら、おじいちゃんの指揮で協奏曲をやるんだ。
 それが小さい頃の、伊調の一番の夢だった。


 同世代が出るような国内のコンクールはほとんど優勝が当たり前になって、伊調は海外のコンクールにも挑戦するようになった。
 やはり世界は広くて、そう簡単に優勝はできなかったけれど、たくさんの素晴らしい演奏を聴くことができるのは楽しかった。自分にももっと、可能性があるような気がして。


 フルサイズのバイオリンが弾けるようになったら。

 この課題曲が、完璧に弾けるようになったら。

 次のコンクールで、もっといい成績を残せたら。


 両親は言わずもがな、兄も姉も、自分たちなりの音楽を追求している。成長すればするほどに、上手くなれるのだろうと根拠もなく思えたし、上には上がいると実感するほどにそれが楽しかった。


 小学五年生になって、伊調にはフルサイズのバイオリンがプレゼントされた。
 まだ少し大きい楽器だったけれど、夢への一歩を踏み出したようでうれしくて、そのバイオリンを見る度にワクワクした。

「……弦八、またバイオリン磨いてるの?」

 六つ離れた兄は、その頃にはもう指揮者を目指して進路を選んでいた。音楽の知識も曲の知識もはるかに豊富な兄は、伊調にとって一番身近な憧れの対象でもあった。


「ここ……ちょっと、傷があるような気がして」

「ん、どこ……ああ。これは、別に大丈夫だよ」

「でも……」


 手に入れたばかりのバイオリンを綺麗なままにしておきたくて、小さな傷も見逃したくなかった。そんな伊調に、兄は「あのな」と言い聞かせる。

「弦八の楽器は、新しいわけじゃないんだよ」

「?」

「この楽器、おじいちゃんが選んでくれたって知ってるか?」

「え? ううん」


 それは初耳だった。
 伊調がこのバイオリンを手に入れたのは、十一歳の誕生日。伊調の誕生日である三月はオーケストラのシーズンの真っ只中なので、祖父が一緒に過ごせることはほとんどない。
 その日も、祖父は海外公演のためメッセージカードのみを届けてくれていた。


 十一歳のお祝いと、近況の報告や健康を願うメッセージが書かれていただけのその中に、バイオリンの話なんて一つもなかった。


「おじいちゃんの古い知り合いの人が譲ってくれたバイオリンなんだってさ。時価にしたら一千万以上とかなんとか……」

「……えっ」


 子どもでも、それがどれほどとんでもない額か、ということはわかった。途端に今手にしているそのバイオリンが、とても重たく感じる。


「百年以上前の楽器だってよ。弾くのは難しいけど、弦八ならきっと時間を懸けて自分の音色を作っていけるだろうって。おじいちゃんが話してたらしい。
弦八がこの楽器と、どういう風に付き合っていくか楽しみだってさ」

「……」

「だから、その傷はさ。悪いものじゃなくて、このバイオリンがずっと過ごしてきた時間の……なんだろう、証みたいなものだと思うよ。勲章みたいな」

「そっか……」


 そう言われると、その小さな傷もとても愛おしいものに思えてくる。自分より遥かに長い時間を過ごしてきたこのバイオリンと、これから先長い音楽人生を共に過ごしていくのだと思うと——胸が詰まった。

 絶対に大切にしたいし、大切にする。そう、心に決めた。


「まあ、本当はおじいちゃんも、変に重たくならないように弦八には言わないでって言ってたらしいんだけど……自分が使う楽器のことは、知っておきたいんじゃないかと思って。俺だったらそうだから」

「うん……ありがとう。知れてよかった」


 祖父が心配してくれたように、たしかにこの楽器は重たい、と思う。今の弦八では、きっと、このバイオリンの本来の音色をまったく引き出せていないだろう。

 だけど、きっといつかはこの音色を自分のものにできると——弦八ならそうできる、と——祖父が考えて、この楽器を選んでくれたことが何よりもうれしかった。


 この楽器で、祖父と同じ舞台に立つ。そして、祖父に伊調の音楽を褒めてもらおう。よくできたと、さすが、弦八ならできると思っていたと。いつかきっと、そう言ってもらおう。


 その日から、それが伊調の夢になった。


 中学は、兄と同じ私立の音楽コースに進んだ。
 音楽が好きで、音楽と共に生きたいと思っている同級生たちとの生活も、伊調にとってはとても充実していた。


 ——中二の終わりの、ある日までは。



「伊調なんて、ちょっとずるいじゃん」

 同級生のそんな言葉が聞こえてきたのは、中学二年生の一月のこと。
 国内でもっとも大きなコンクールの結果が出たばかりだった。話しているのは同じコンクールに出ていた隣のクラスの生徒で、結果は伊調の一つか二つ下だったと記憶している。

「伊調、っていう名前があれば、国内のコンクールなんて確定でトップだろ?
伊調笙梧いちょうせいごだけじゃなくて、親の名前もあるから国際大会でも強いし。やっぱ家柄には敵わないよな」


 ドキリとした。

 心臓が驚くほど音を立てていたし、同時に、何を言われているのかわからなかった。
 自分はたしかに伊調弦八だけど、伊調家の人間だけど、コンクールの結果にそれがどう関係しているというのか。


(僕は……ただ、たくさん練習して。誰よりもうまくなりたくて——おじいちゃんと、弾きたくて……)


「たしかに、伊調くんのお家ってみんな有名だもんね。うちの先生も伊調笙梧の指揮が好きだって言ってたし」

「前に聞いたけど、教わってる先生でコンクールの有利不利はあるって言うじゃない? 
そう考えると、伊調家って有利かもね。クラシックやってる人で、伊調家を知らない人はいないし」

「そうそう。日本でクラシックやってたら、大体通ってるよね。ファンも多いし」

「伊調家だから、っていい結果出してるのに、自分は天才です、みたいな顔されてもなー」


 少なくとも、聞こえてくる声は一人二人ではなかった。何人かの同級生が、伊調のことをそういう目で見ている。


(天才だなんて、思ったことない……)

 祖父が与えてくれたバイオリンの音色だって、まだ全然満足のいくものは出せていない。

 それでも、少しずつ、自分なりに上達を実感はできているはずだった。来年は大きな国際コンクールを目指そうと先生とも話していて、それは難しい挑戦かもしれないけれど、もっと上にいけるならきっと楽しいと、そう思っていた。

 音楽という広い空を、伊調は自由に飛び回っていたはずなのに——突然、墜とされたような気持ちだった。



「ああ……私もそういうこと、言われたよ」

 帰ってから姉に話すと、彼女はあっけらかんとそう言ってみせてますます伊調を戸惑わせた。

 姉は兄や伊調とは違う、女子校の音楽コースに通っているが、そこでもそういった言葉は時々聞くのだという。

「お兄ちゃんも似たようなこと言っていたから、まあ、伊調家の宿命みたいなものじゃない?」

「嫌じゃないの……?」

「嫌だよ。嫌だけど、まあ、私が伊調家なのは事実だし。それに、恵まれているのもたしかだしね」

「でも、お姉ちゃんだってたくさん練習して、それで上手くなっているのに……!」

「そうだけどさ、」


 少し考えながら、姉は続けた。その横顔は妙に大人びていて、冷静で、なんだか知らない人のようにも感じてしまった。

「実際、私たちはこの家に住んでいるから、楽器を弾く時間も場所も悩んだことはないでしょう? 
子どもの頃からおじいちゃんやお父さんやお母さんのコンサートにもたくさん行かせてもらっていて、有名な方とも親戚のおじさんやおばさんみたいにお話しさせてもらったり、一緒に演奏させてもらったりして……それって、私たちが『伊調家』だからじゃない?」

「でも、それとこれとは……」

「たしかにね、私たちの練習や努力を、全部その中に閉じ込めて語られるのは嫌だけど……それ以上のものを私が持っている、って証明するには、まだ時間がかかると思うの」

「…………」


 姉は、伊調では追いつけないほどに大人だった。
 たった四つしか離れていないはずなのに、見つめているその先は、伊調よりも遥か遠くにあるように見えた。

「十年後、二十年後、『伊調家の娘だから』じゃなくて、私の演奏だからいいんだ、私の音楽だからいいんだ、って——そう思わせることができたら、私の勝ち。だから、まだいいの」

 その言葉はとても強くて、まっすぐだった。

 折れない彼女の強さがどこから来ているのか、伊調にはわからなかった。


(なんで? 僕は、こんなに……悔しいのに……)


 悔しいのは、きっと、どこかで、自分でも思っていたからなのかもしれない。
 優しくしてくれるバイオリンの先生も、にこにこと近づいてくる同級生たちも、祖父の話を楽しそうにする学校の先生たちも——

 みんな、『伊調弦八』のことは、見ていないんだってこと。



 姉の部屋を出て、自室に戻った伊調は思わずスマホの検索画面に『伊調弦八』と自分の名前を入力していた。

 なんでそんなことをしてしまったのかわからない。安心したかったのかもしれないし、逆に、投げやりになっていたのかもしれない。

 一番上にはこの間のコンクールの結果のページが出てきて、その下にはいくつか、動画のリンクが見つかった。どれも、これまでのコンクールで伊調が演奏した時のものだった。


 中でも一番近い時期のものを開いてみる。
 ミスはなかったし、練習通りの演奏はできていたと思う。曲の解釈にも力を入れて、伊調なりに精一杯表現した。

 決して悪い演奏ではない。一位という結果が、それを証明している。
 ——なのに。



(……違う)



 自分で思っていたよりもずっと、その演奏は、色あせているように感じた。
 技術はしっかり主張っできている。曲の解釈に則った表現も、きちんと入れている。

 だけど、それだけだ。


 あの日、祖父の横で弾くソリストに感じた鮮烈なまでの感激の、半分以下も、自分の演奏からは感じられなかった。そこに行きつくことのできるビジョンさえも、まるで見えなかった。

 動画の下の方には、コメント欄が開かれている。多くは伊調を褒めるコメントばかりだった。けれどそのほとんどに、伊調家の名前があった。

 「さすが伊調家」「この年齢とは思えない、やっぱり伊調の血筋を感じる」「お手本みたいに美しい演奏、伊調の音楽だなと感じた」——


(お手本……)


 その言葉が引っかかって、もう一度、動画を戻して最初から見てみる。
 お手本みたい、と、その言葉はきっと褒め言葉なのだろうけれど——伊調は、わかってしまった。



(そっか、僕の演奏は……『僕』の、色がないんだ)



『弦八らしい演奏が、できるようになったら』

 かつての祖父の言葉を思い出す。
 あれは、こういうことだったのかもしれない。

 バイオリンがどんなに立派でも、伊調はまだ、そのバイオリンを自分の音色として弾きこなせていない。
 曲も一緒だ。どんなに完璧だって、どんなに表現を磨こうとしたって——
 伊調の中には、『伊調弦八の音楽』がなかった。どこかでずっと、誰かを意識している。

 それが誰なのかも、伊調はよくわかっていた。

『私の演奏だからいいんだ、私の音楽だからいいんだ、って——そう思わせることができたら、私の勝ち』


 姉にはたしかにあるのだろう、その音楽が、伊調にはまったく聴こえてこなかった。

 中学三年の秋、目指していた国際コンクールも辞退して、伊調は進学先を普通科の高校にしたいと両親に申し出た。

 両親は、反対しなかった。


「まあ、そうだね。音楽だけじゃなくて、いろんな世界に触れてみるのもいいことだと思うよ」

「そうそう。弦八のやりたいようにやればいいわ」

 優しさで言われていることはわかっていた。両親は、いつだって伊調に選択肢を与えてくれる。

 だけど、やはり止められないのだな、とも思ってしまった。

 祖父も、両親も、兄や姉も、自分の意思で音楽を選んでいる。
 選べないのは伊調だけで、それを強引に選ばせるような厳しさは、両親にはない。

 ——それは、強制してまでその道に進ませるほど、伊調の音楽が特別ではないことの証明にも思えた。


「バイオリンは? どうする?」

「……先生のところには、通おうと思ってる。コンクールとかは……たぶん、出ない……」

「そう。それじゃあ、そう伝えておくわね」

「あっ、あと……」

 ぎゅっと、手を握り締めた。部屋に置いてきた、大切な楽器を想う。
 伊調にとって、何よりも大切なものだった。——だけど。


「兄さんの楽器……借りてもいいかな。兄さんが高校の頃、使ってたやつ」

 指揮者を目指して、兄はピアノもバイオリンもヴィオラも、それから管楽器も、様々な楽器に触れていた。
 高校ではバイオリンのレッスンにも定期的に通っていたので、その時に使っていた楽器は彼が指揮者を目指して旅立った今、家に残されている。

 百万ほどのもので、もちろんいいものではあるけれどバイオリン専攻で受験やコンクールを考えると少し物足りないものだと兄が話していた。自分は指揮者になるためにバイオリンを学びたいだけだから、ちょうどいいのだと。

「……ああ、もちろん」

 伊調が何を考えてその申し出をしたのか、長く音楽に触れてきた両親にはきっと、伝わっているだろう。

 いいバイオリンを弾くためには、それだけ、自身の腕や技術も必要となってくる。もちろん、その楽器を弾くという覚悟も。


 今の伊調には、自分のあの楽器を——祖父が弦八のためにと与えてくれた、あのバイオリンを——弾く資格は、ないと思っていた。



To be continued…


いいなと思ったら応援しよう!