見出し画像

【EP2-8】「パガニーニ」|アッバンドーネはまだ知らない

Arcanamusicaスピンオフ小説② 「アッバンドーネはまだ知らない」(伊調 弦八&川和 静)

著:衣南 かのん

8.

 静かな細い雨が降り続いていた。

 そのせいか、視界が霧がかっていて——目の前の出来事のすべてが、どこか遠い場所の出来事に見えてしまう。


 久しぶりに帰ってきた兄は、涙を流す姉を支えていた。
 両親はまっすぐに立って、訪れる人たちにゆっくりと頭を下げていて。
 伊調いちょうは一人、目の前で笑う祖父の笑顔を眺め続けていた。



 ——伊調笙梧いちょうせいごが、亡くなった。
 音楽界の巨匠の死を、テレビでは連日悼み、様々な人から言葉が贈られていた。

 お別れの会にも、多くの人が集まってくれた。
 だけどその中でただ一人、伊調はまるでどこか暗い部屋に閉じ込められたように——出口が見えないまま、呆然と立ち尽くしていた。



   *



 元々、この数年は海外での公演を続けながら闘病生活をしていたのだという。
 詳しいことを両親が話してくれたのは、すべてのお別れが終わった後だった。


「おじいちゃん、弦八つるやたちには言わないでくれってずっと言ってて」


 帰ってきたのは、もう先が長くないことがわかったから、とのことだった。
 最後に家族と、懐かしい家で過ごすために帰ってきて——本当に、最後まで元気に見えて、突然いなくなってしまった。

 倒れているのを見つけたのは伊調で、慌てて救急車を呼んだ。そこから入院して、わずか二週間——祖父はあっけなく、いなくなってしまった。
 だけどその記憶すらも、もううまく思い出せない。
 全部が嘘みたいで、その中でただただ——あの日の言葉を、何度も後悔していた。


「弦八、これ、おじいちゃんの形見分けだって。ほしい楽譜あったら持ってっていいってよ」

 いくつかの箱にいっぱいに入ったスコアブックを持って兄が訪ねてきたのは、祖父の葬儀から数日後のことだった。

「え、兄さんは?」

「まあ俺ももらうけど。伊調笙梧のスコアなんて指揮者目指してる人間にとっちゃお宝だからな」

「じゃあ、僕はいいよ。兄さんが全部持っていきなよ」

「無理無理、重量制限で飛行機ひっかかるって。送るにしたって結構かかるし、そもそも留学先の部屋じゃこんなに置けないし。何冊か持っていって、あとは実家に置いておいてもらうよ」

 そう言うので、結局兄と二人で箱から楽譜を取り出してはどれを譲りうけるか、を相談することになった。

「……あ、これ、ヴィヴァルディの四季だ……」

「ああ、それ、よくリビングで弾いてたよな。弦八がバイオリンで、俺がヴィオラで、おじいちゃんが突然指揮始めたりして」

「うん、あった」


 並べていく楽譜は、どれも覚えのあるものばかりだった。

 祖父と一緒に演奏したもの、祖父の指揮を見にいったもの、祖父から教えられた好きな曲……。
 タイトルを見るだけで、そのすべての曲が頭の中で奏でられる。それほど染みついているのだ、と、実感した。 スコアブックはどれも古びていたけれど丁寧に扱われているのがよくわかった。


「すごいなあ……こんな量の音楽を、長年、届けてきたんだよな。一曲一曲、こんなに向き合って……」


 びっしりと書き込まれた鉛筆のあとを、兄がしみじみと眺める。

「おじいちゃんが前にさ……自分は音楽に愛されなかったけど、こんなにたくさんの音楽を愛することができて幸せだって言っててさ」

「……どういう意味?」

「おじいちゃん、いろんな楽器やってみたけど全部そこそこだったんだって。器用貧乏っていうのかな。全部上手にできるけど、これだ、ってものはなくて……自分より上手い人が周りに大勢いて、あっという間に抜かれて。
自分は音楽には愛されてないんだ、って悩んだらしい、若い頃」

「ええ……?」


 そんなわけない、と否定が思わず漏れた。戸惑う伊調の様子を見て、兄も「わかる、俺も同じ反応した」とうんうん頷く。


「天才指揮者が何言ってるんだよ、って俺も思ったけど……おじいちゃんにもそんなコンプレックスあったんだ、と想ったら、ちょっと、うれしかった」

「僕、それ……聞いたことない」

「まあ、俺も似たようなことで悩んでさ。どの楽器やればいいんだろう、っておじいちゃんにぼやいたら……自分はそうだったから、って指揮者を勧められたんだよ。案外向いてるかもしれないぞって言われて。で、その気になったわけ」

 留学先での勉強が終わったら、おじいちゃんの弟子にしてもらう約束だったのになあ。

 ぽつりとこぼす兄の言葉には寂しさが滲んでいたけれど、どこかで納得しているようにも感じた。
 兄は、きっと祖父と向き合った時間に後悔がないのだろう。だけどそれよりも——伊調は、今聞いた言葉の全てが信じられなくて。


「そう……なの?」

 祖父に加えて、兄もそんなふうに悩んでいたということが意外過ぎてぱちぱちとまばたきを繰り返す。

 祖父も、兄も、伊調にとっては完璧な人たちで——自分の音楽に、迷いなんてない人たちだと思っていたから。


「あとは……おじいちゃん、弦八に一番甘かったからかな」

「そうかな」

「そうだよ。……あ、ほら、あった。これ」


 ぽん、と兄が渡してくれたのは、あの日見たパガニーニのバイオリン協奏曲の楽譜だった。


「あんなちっちゃいお前がさ、『おじいちゃんと演奏する!』ってバイオリン始めたら……そりゃ、かわいくてたまらなかったと思うよ。だからおじいちゃん、弦八にはいつもちょっとカッコつけてたもん」

「そう……なの?」

「まあ、別に俺たちにも弱いところなんて見せなかったけど……弦八はなんか、特別な感じがして見えたよ。末っ子だから、っていうのもあるのかもしれないけどさ」


 たしかに、思い返してみても祖父はいつだって優しかったし……少し、甘くもあったけれど。
 だけど、知らないところで祖父の中にも葛藤があったんだろうか。——だとしたら。


『おじいちゃんには、わからないと思う』


 ——あの言葉を、いったい、どんな気持ちで聞いていたんだろう。


「ほら、弦八のために見つけてきたあのバイオリンだって……って、え!? 弦八!? どうした!?」


 声もなく、ぼたぼたとあふれる涙を止められないでいる伊調に、兄が気づいて驚きの声を上げる。
 楽譜を濡らさないようにと避けながら、伊調は一生懸命涙を拭った。


「ぼ、僕……おじいちゃんに、ひどいこと、言っちゃって……おじいちゃん、僕の歌、応援してくれたのに……」

「歌!? え、弦八、歌ってんの!? 初耳なんだけど!?」

「う、歌ってるけど、うまくなくて……でも、おじいちゃん、聴きたいって……」

「あー、とりあえず落ち着け、な?」


 支離滅裂だった。
 申し訳なさと情けなさと、向けられている気持ちからも愛情からも逃げ続けた自分への怒りと、悔しさと……——。

 全部が全部、ごちゃごちゃになって襲ってくる。
 聴いてもらえば良かったんだ。聴きたいって、言ってくれたんだから。僕が今やっている音楽はこういうものだって、こういう歌を歌ってるって。

 だけど、自信が持てなくて。胸を張って、聴いてもらうことができなくて。だから、恥ずかしくて。

 大切にされているのはわかっていたのに、大切にできなかった。
 優しい言葉をかけられていたのに、優しくできなかった。


 祖父だけじゃない。今、こうして涙をぬぐってくれる兄も。
 音楽から離れようとしても、見守ってくれていた両親も。
 自分を守る方法を教えてくれていた姉も。

 いい人たちだけど、自分とは違うと——線を引いて、離れようとした。離れたかった。
 だって、家族の中にいると嫌でも音楽のことを考えなきゃいけなくなる。


 苦しくて、しんどくて、楽しくなんてないのに、——嫌いになれなくて。
 嫌いになりたかった、いっそ。その方が、ずっと楽だった。


(ごめんなさい)


 ずっと逃げ続けて、音楽を、嫌いだなんて言って。


(ごめんなさい……)


『またいつか、弦八と……弦八の音楽で、一緒に演奏できる日がきたらうれしいな、とは思うよ』


 その言葉からも、目を背けて……
 祖父の、自分の夢を——捨てようとして。



   *



「……落ち着いてきた?」

「……少し」


 まだずびっとはなをすすりながら、兄の前で子どものように泣きわめいてしまった恥ずかしさから、顔を逸らす。


「ほら。これは、弦八が持っておきな」


 パガニーニのバイオリン協奏曲コンチェルトの楽譜を渡されて、受け取る。ぎゅっと抱きしめながら、兄にお礼を告げた。


「お礼ならおじいちゃんに言いな。じゃあ、続き……早く仕分けないと、俺、明日には帰らないといけないから」

「……うん。あのさ、兄さん」

「ん?」

「音楽、嫌いになったことある?」


 今なら素直に聞ける気がして尋ねると、兄が気まずそうに「あー……」と唸り声をあげた。


「……あるよ、すごくある。ていうか、音楽やってて音楽嫌いになったことない人なんていないんじゃないの」


 それが当然だというように、兄はあまりにもあっけらかんと、伊調の葛藤を受け止めた。

「好きと嫌いを常にいったりきたりしてるよ。上手くいけば好きだし、上手くいかなければ嫌いだし、でも悔しいからもう一回挑戦して、そうしたらまた好きになって……その繰り返し」

「……そうなの?」

「考えてみろよ、偉大な音楽家たちだって結構な割合で悩んで苦しんでるんだぞ。きっと、そういうものなんだよ」

「そういうもの……」

「そ、そういうもの。ほら、仕分け続けるぞ」

「……うん」


 そっか、そういうものなのか。
 あまりにもあっさりと言われたその言葉が、なんでか今は、素直に受け入れられる気がした。


 その日、伊調は久しぶりにあのバイオリンを取り出した。

 祖父が与えてくれた、特別なバイオリン。しまい込んでいたけれどメンテナンスだけは両親が欠かさずしてくれていたから、弦も、弓も、綺麗に調整されている。


「……ずっと、ごめん」


 取り出したそのバイオリンを久しぶりにかまえると、いつもよりも背筋が伸びる気がした。


 チューニングのために弾いたA線は、以前よりも響かない。長い間、このバイオリンと向き合ってこなかったから、仕方がない。

 それでも、——うまく弾けなくてもいいから。


 思い出を埋めていくように、祖父へ向けたパガニーニを響かせた——。



To be continued…


いいなと思ったら応援しよう!