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【EP2-0】「一欠片でも」|アッバンドーネはまだ知らない
Arcanamusicaスピンオフ小説② 「アッバンドーネはまだ知らない」(伊調 弦八&川和 静)
著:衣南 かのん
0.
流れるピアノの音に重ねて、涼やかな歌声が響く。
賑やかに談笑を楽しんでいた客たちの視線も一斉にそちらに向かって、おのおの、酒や食事を楽しみながら音楽に耳を傾けているようだった。
そんな店内の様子を一望できる、ステージから一番離れたカウンター席に座って伊調弦八はちらりと、隣の——斑目ジュナへ視線を向ける。
斑目の視線はまっすぐに、ステージの上の歌い手に向けられていた。
川和静。ここでは『Shizuka』とだけ名乗っているらしい彼は、どこにでもいそうなカジュアルな服に身を包んでスタンドマイクに向かっている。
ここで、こうして川和の歌う姿を見るのは、実は初めてではない。
斑目が通うバー、と聞いていたから最初はもっと大人びた空間を想像して気負っていたけれど、この店はカジュアルなレストランのような雰囲気だった。
手元の料理や酒を楽しめるようにだろう、照明もさほど暗くないし、客の雰囲気も落ち着いてはいるが決して閉鎖的ではない。
高校生である伊調がいても、もちろん馴染んでいるわけではないけれどものすごく浮いている、ということもなかった。
そこにBGMの様に流れるのは、食事の空気を決して邪魔しない、穏やかな英語詞の曲。川和の歌は、上手だ、とは思う。
透き通るような歌声も、やわらかく奏でられる旋律も、彼が歌を愛し、丁寧に音楽を紡いでいることがよくわかる。
だけど、それだけだ。
(……どうして)
再び隣に目を向ければ、目を輝かせてステージを見つめる斑目がいる。彼がそんなふうに誰かを見るところを、伊調は、他で見たことがない。
(どうして、ジュナさんは……)
歌だけなら、自分も負けていないと思う。音楽的な技術でいえば、いっそ上回っているのではないか、という自負もあった。
伊調が経験してきたステージと、この店のステージはまるで違う。
自分の技術を見せるためではない、誰かの評価を得るためではない、ただ歌いたいからそこに立つ——川和のステージは、そういう、シンプルなものにも思える。
(何が違うんだろう。僕と、……あの人と)
特別な華がある人には思えない。伊調にとって川和は、少し歌が上手いだけの、ただの大人に見える。
だけど、伊調にとって何よりも大切な斑目が——一番の想いを向けるのは、彼の歌なのだ。
伊調の歌でも、音楽でもなくて。
*
一曲だけ、という約束だったので、伊調は約束通り、一曲だけで店を出た。
飲み干したソフトドリンクの代金だけでも置いてこようと思ったけれど、「さすがに高校生にバーでお金を払わせるわけにはいかないよ」と斑目に固辞されてしまい、結局甘える形となった。
(ジュナさん、迷惑だっただろうな……)
斑目と川和は、旧知の仲らしい。小学校の頃の同級生で、それ以来の付き合いだと以前に聞いた。
一方、伊調はまだ高校生で、社会人である斑目とも、川和とも、本来であれば接点なんてない。
だけど伊調と斑目、川和の三人には一つだけ、共通点がある。『アルカナムジカ』というアプリで、歌い手として活動していること。
ただし、伊調と斑目は川和静がアルカナネーム『RiZ』として活動していることを知っているけれど、川和は旧友である斑目が『テティス』として活動していることは知らないらしい。
斑目曰く、「まだ、その時じゃない」とのことだ。
そして当然、川和——RiZは、伊調のことも、アルカナネーム『アリア』のことも知らないだろう。
伊調だけが一方的に川和を知っていて、そして、勝手に意識している。彼の歌も、配信される度にすべて聴いていた。
だけどその度に、答えが出なくてわからなくなる。斑目にとって川和の歌は特別で、何にも代えられないものらしい。
「弦八の歌ももちろん好きだよ」とは言ってくれるけれど、川和に見せるような憧憬も、執着も、伊調の歌に持っていないことはわかっていた。
アプリで聴くだけではわからない、何か特別な魅力が生の歌声を聴けば感じられるのかと、わがままを言って今日はバーで行われるミニライブに連れていってもらったけれど……結局、何もわからないままだ。
伊調にとって、川和の歌は他の多くの歌い手のものとそう変わらない。斑目が執着する、その理由の一欠片でもわかれば——自分の歌の、ヒントになるかと思ったのに。
手ごたえを感じられないままの帰宅は、なんとなく気持ちも晴れなかった。
重たい鉄でできた門も、いつもより更に重たく感じる。
そうして、分厚い木の扉を開いた瞬間——
「弦八! 久しぶりだなあ、大きくなって!」
「……おじいちゃん?」
陽気に声をあげる祖父の姿に、伊調は目を丸くして固まった。
伊調笙梧は世界的にも有名な指揮者であり、音楽一家としての伊調家の始まりとも言える人である。
数々の国際コンクールで入賞した経歴を持ち、国内外のオーケストラから依頼が絶えないため、祖父といえど伊調が共に過ごしたことも数えるほどしかない。
伊調の記憶にある笙梧の姿は、後ろ姿ばかりだ。幼い頃から、笙梧の指揮するオーケストラの演奏を何度も、何度も見て、聴いてきた。
出発の時もいつだって振り返らず次の場所へ、次の音楽へと旅立っていく祖父の姿は、いつだって力強く輝いていた。
——いつか、祖父の指揮するオーケストラで弾きたい。幼い頃は、そんなことも考えていた。
そんな祖父が、目の前にいる。
「……どうして、急に」
「久々に日本と、家族が恋しくなってね」
鷹揚に笑う祖父は、以前に会った頃とまるで変わらない。
前回会ったのは、たしか、伊調がまだ中学生の頃だ。日本国内を回るツアーがあるからと、その時もしばらく伊調家に滞在していた。
伊調の家、と言っても、元々は祖父の家である。今は父が家を引き継いでいるが、祖父がこだわって決めたという間取りや内装も、各国で気にいったものを買い付けたという調度品も、すべて祖父がこの家で過ごしていた頃のままだ。
個室はすべて防音となっていて、リビングは広々と、家族が集まって演奏ができるようにホールのような造りになっている。
ピアニストの父とチェリストの母に、祖父と同じ指揮者を目指して留学中の兄と、ピアノ専攻で音大に通う姉。その全員が、祖父である笙梧と同じく様々なコンクールで優秀な成績を収め、その名を轟かせている。
伊調が生まれる前に亡くなってしまったので知らないが、祖母も、有名なピアニストだったという。
クラシックを少しでもかじったことのある者なら『伊調家』を知らない者はいない。
伊調弦八が育ってきたのは、そういう家だった。
「おじいちゃん、しばらく一緒に暮らすことになったから。弦八も、よろしくね」
「え……うん」
微笑みながら言う母の言葉に、少し驚きながらも頷く。
「今日はもう遅いからな、また明日にでもゆっくり話そう」
「そうだね」
断ることはできなくて、伊調も曖昧に笑う。
中学までは、伊調も音楽コースのある私立に通っていた。そのままエスカレーター式で高校、大学と進んでいく生徒も多い学校だ。
だけど伊調は、そのまま高校には上がらず、家から通える私立高校を受験し直した。音楽とは関係ない、普通科の高校だ。
受験をしたのは祖父と最後に会った後のことだけれど、当然、伊調が普通科の高校に通っていることは両親から聞いているだろう。
少なからず、その話にはなるだろうな、と、そう考えると少しだけ、気が重かった。
——きっと祖父は、伊調の進路を否定などしないとわかっていても。わかっているからこそ。
早めに休むという祖父を見送り、伊調もようやく自室に戻った。
川和の歌う姿を見たこと、祖父が帰ってきたこと。
なんだかいろんなことが起きた一日に、少し疲れたような気がする。
着替えてそのままベッドに横になった伊調は、ぴこん、と枕元のスマホが通知の音を立てていることにも気づかず、そのまま眠りこんでしまった——。
To be continued…