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【EP2-6】「淡い光」|アッバンドーネはまだ知らない
Arcanamusicaスピンオフ小説② 「アッバンドーネはまだ知らない」(伊調 弦八&川和 静)
著:衣南 かのん
6.
川和との練習の後も、伊調は一人で何度も曲に向き合ってみた。
だけどうまく歌おうとすればするほど、あの日の川和の様々な歌声が耳によみがえって、集中できなくなってしまう。
(なんで……RiZさんは、あんなふうに歌えていたのに)
考えるほど、追い詰められていく。斑目との電話も、さらにそこに拍車をかけていた。
完璧な歌を披露して、斑目にもいい歌だ、と言ってもらいたいのに。伊調の歌も、まだ、斑目にとって必要なものだと——そう、思ってほしいのに。
(だめだ、このままじゃ……やっぱり、もっとちゃんと曲の解釈を深めて……表現力も、もっと)
何度目かのテイクで、声を張り上げる。声を張るような曲ではないことはわかっていたけれど……必死だった。
「弦八?」
集中していたせいで、部屋を訪ねる祖父の姿に気づかなかったらしい。
ヘッドフォンをしてマイクに向かう弦八の姿に驚く祖父の表情に、伊調はまた、逃げ出したいような気持ちになった。
「驚いたよ、弦八が歌を歌っているなんて」
「……ごめんなさい」
「謝ることなんて何もないだろう。歌、いいじゃないか。僕も好きだよ」
反射のように謝る伊調に、祖父は優しくそう言って譜面を手に取った。
伊調が書き起こしたものなので、決して綺麗なものじゃない。けれどそれを見ただけで、祖父はメロディを鼻歌で再現してみせる。
「優しい、いい曲だね。これは……一人で歌うものじゃなさそうだ。デュエットかな?」
「うん……」
「一緒に歌っている人がいるんだね。もしかして、この間のお客さんかな」
すべてを見透かされて、伊調はただ、頷くことしかできなかった。
家族に歌をやっていることを言わなかったのは、みんなが進んでいるクラシックの道とはまったく違うところで、捨てたはずの音楽を続けている負い目からだった。
きっと話せば誰も否定しないだろうことはわかっていたけれど……それでも、どうしても、言い出しづらかったのだ。
「ふふ、いいね。歌か……」
うれしそうに微笑む祖父に、なぜか胸がぎゅっと苦しくなる。
「完成したら、聴かせてくれるかい?」
「それは……」
うん、と、すぐには頷けなかった。
「その……まだ、全然、上手くないから……」
「上手くなくてもいいんだよ。僕は、弦八の歌が聴いてみたいんだ」
「でも……」
「上手とか、下手とか、そんなのは関係ないよ。音楽はただ楽しめばいい。弦八が楽しく歌っているなら……それを、聴かせてほしいな」
まただ。『楽しく』という言葉が、弦八の心の深いところにざっくりと刺さる。
楽しくって、なんだろう。何をもって、楽しくなんて歌えるんだろう。
——こんなに、苦しいのに。
「おじいちゃんは……音楽をやっている時は、楽しいの……?」
聞いても無駄な問いだとわかっているのに、聞かずにいられなかった。どこか、苛立ちもあったかもしれない。
「それはもちろん! 楽しいよ。色んな人と音を合わせて、一つの音楽を作っていく……ワクワクするし、同じ曲を演奏していても、同じ音楽になることは一度としてないからね。毎回、本当に楽しい」
「僕は……あまり、わからないかもしれない」
ぽつりと、思わず本音がこぼれた。家族の前では、決して口にしたことがなかったのに。
「歌っていても、比べちゃうんだ。今も……あの人の歌が頭から離れなくて、それを越えられない自分が、……悔しくて」
「……ふむ」
バイオリンの時はどうだっただろうか、と考える。
もっと素直に、楽しめていただろうか。
(……そんなことは、なかったかも)
あの頃だって、弦八の頭の中には常に、憧れの人がいた。追いつきたくて、追いつけなくて、何度も自分と比べたし、何が違うのかを考え続けた。
それは今よりは前向きで、楽しい時間だったかもしれないけれど——祖父のように、こんなにはっきりと、「楽しい」と言えたことはあっただろうか。
——子どもの頃なら。
——最初に、あのバイオリンをもらった頃なら。
まだ、言えたかもしれないけれど。
「それは、僕と弦八の……音楽への向き合い方の違いもあるかもしれないね」
「向き合い方?」
「ほら、僕は指揮者だからね。一人では音は作れない。たくさんの人の音楽を集めて、ようやく、これが僕の音楽だ……っていうものを作れる。だけどバイオリンも、歌も、一人でも曲を奏でられるだろう?」
「それは……うん」
「だから、迷うのかもしれないね。自分の音楽がどんなものなのか。その中で、誰かと比べてしまうことだってあると思うよ。
学ぶことは真似ぶこと……とはよく言うけど、楽器だって、最初は先生を真似して始めるだろう。誰かの存在を意識するのは、決して悪いことじゃないんだ」
でも、と祖父は続ける。
「比べて、苦しくなるのは……少し、もったいない。僕は弦八の歌も、その人の歌も聴いてないけどね。だけど、音楽は正解がないものだから。
誰かを越えようとしなくていい。弦八は、弦八の道を見つければいいんだよ」
ああ、結局はまた、そこに戻ってしまうのだ。
自分らしく、とか、自分の音楽、とか。
逃げたはずの扉がまた目の前に現れて、だけどそこには、がっちりと鍵がかかっている。その鍵を開く術を、伊調は持っていないのに。
祖父の言うことはわかる。わかるし、祖父は本当に音楽に優劣をつけず、ただそのものを愛しているのだろう。その大らかさすらも、今の伊調には——うらやましく、疎ましく感じてしまう。
「……おじいちゃんには、わからないと思う」
募る焦燥感と苛立ちが、つい、言葉になってしまった。
「おじいちゃんはすごい人だと思うけど。みんなも、天才指揮者って呼ぶし……僕も、そう思う。だけど、だから……きっと、僕の気持ちはわからない」
「弦八……」
何も考えず、ただありのまま、楽しめれば良かった。
だけど今の伊調の音楽は、そういうものじゃない。
斑目からの期待、それに応えたいという想い、川和への嫉妬、負けたくないという執着心。
「誰か」を意識することで、ようやく、今の伊調の音楽は成り立っている。そこに自分がいないことなんてわかっているけれど、……そうしないと、伊調は音楽と、繋がっていられなかった。
(……あれ、でも、どうして僕、そこまでして……)
こんなに苦しいなら、いっそ、手放してしまったほうがよほどいいんじゃないだろうか。
純粋だった子どもの頃の、ただ「大好き」と、そういう気持ちで夢中になれた頃の——あの頃の自分の音楽が、どんどん遠く、くすんでいく。
いつかぐちゃぐちゃになってしまうくらいなら、綺麗なものは、綺麗なまま——しまいこんで、それこそ、鍵をかけて。
そうした方が、きっと、よっぽどいいのに。
どうして、できないんだろう。
「……ごめん、おじいちゃん。僕、練習しないと」
「そうか。……邪魔したね」
少し寂しそうに言って、祖父は部屋を出ようと扉の前に立つ。けれど一度だけ立ち止まって、振り返った。
とても優しい、だけどずっと一つのものに向き合ってきた——凛とした瞳が、伊調を捉える。
「弦八。僕はね、どんな形でも……弦八が音楽を続けてくれるなら、それはとてもうれしいと思う」
「え……」
「もちろん、苦しみながらやるものじゃないし……必ずプロになってほしいとか、そういうことじゃない。だけど、弦八の中に音楽があるなら……それだけでも、うれしいよ」
初めて言われた言葉だった。
音楽から離れようとしても、離れられない。宙ぶらりんで曖昧なままの伊調を、家族は誰も責めなかったし——音楽の話も、伊調にはほとんどしなかった。
「昔、よく一緒にバイオリンを弾いただろう。僕は指揮をしたり、たまにピアノで合わせたり……弦八は難しい曲もやりたがって、まだ小さい体でパガニーニの協奏曲なんかも弾いてた」
「……うん」
淡い光に包まれて、楽しかった音楽の記憶がよみがえってくる。
憧れが、ただ、綺麗なものだけで作られていた頃。
「弦八は僕にとって、大切な家族だから……大切な人が、自分の好きなものを好きでいてくれたら、それはうれしいことだ」
「……」
「ただそれだけ。弦八に音楽を強制したいわけじゃないし、楽しめないなら、離れたっていい」
「僕、は……」
「でも、そうだなあ。少しだけわがままだけど……弦八が昔言ってた、『おじいちゃんと共演したい』っていう、あれね。あれは、僕にとっても夢だったから。
またいつか、弦八と……弦八の音楽で、一緒に演奏できる日がきたらうれしいな、とは思うよ」
ただの、僕のわがままだけどね。
どこまでも優しく、祖父はそう言い残して部屋を出ていった。
To be continued…