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【EP2-7】「誰かのために」|アッバンドーネはまだ知らない

Arcanamusicaスピンオフ小説② 「アッバンドーネはまだ知らない」(伊調 弦八&川和 静)

著:衣南 かのん

7.


 川和かわわとの二度目の練習も、伊調いちょうの家で行われた。


「……あのさ。ちょっと聞きたいんだけど」


 前回と同じ部屋に招くと、川和は少し言いづらそうに口を開く。


「この間挨拶してくれたおじいさん……笙梧せいごさんって、伊調笙梧いちょうせいごさん……だよな?」

「……僕が伊調弦八いちょうつるやなので、そうですね」

「いや、そういうことじゃなくてさ。その、指揮者の……」


 詮索しているような気まずさがあるのだろうか。つくづくお人よしな人だな、と感じる。伊調笙梧、という名前を聞いて、祖父と会って、好奇心を抱かない人の方が少ないのだからそんなに申し訳なさそうにする必要はないのに。

 今の学校でも、伊調は何度か、「あの伊調笙梧のお孫さん」という扱いを受けた。教師にも、同級生の保護者にも。


 同級生から、「伊調家なのに音楽はやっていないのか」と尋ねられたこともある。中にはピアノやバイオリンを幼少期に習っていたという生徒もいて、そういう人たちはいっそう、伊調に対して興味を示した。

 せっかく学校が変わっても、結局、伊調が伊調である限りその名前からは逃れられない。それも、学校での居心地をなんとなく悪くしている理由の一つだった。


「指揮者の伊調笙梧ですよ。ちなみに両親も音楽家ですし、兄と姉も音楽をやっています。聞きたいことはこれでいいですか?」


 そういう、ミーハー的に近づいてくる人に比べたら川和の振る舞いはずっとマシなのに……やはりこの人も『伊調』の名前に興味を持つのか、と、どこかがっかりしたような苛立ちに襲われる。

 勝手だというのは、自分でもわかっていた。

「いや、ごめん、詮索するみたいで悪いなとは思ったんだけど……つい、気になってさ。そっか……どうりで、家はでかいしやけに設備は整ってるし……そういうことか」

 納得したように何度か頷いて、川和は練習のための準備を進める。


「まあでも、音楽やるにはすごい恵まれた環境だよな。この前、歌のことは家族に言ってないって言ってたけど……やっぱ、クラシックとは違うからか?」

「別に。……どんな音楽をやっていようと、家族は関係ないです。僕が、なんとなく言いたくないだけで」

「あー、まあ、アプリで配信してる、って場合によっては親御さん心配するかもしれないしな。って、それ言ったらこんな風に会ってる俺もどうなんだって話なんだけど……大切にされてそうだもんな、アリアくん。うらやましいよ」


 いや、実際大切にされてるのか、などと独り言を呟く川和に、ますます苛立ちが募った。

 うらやましい。——うらやましい、か。


「僕は……RiZリズさんみたいに、自由に歌っている人の方が、うらやましいです」


 何か言い返したくて、わざととげとげしく言ってしまった。だけどその言葉に、川和は気にした様子もなく笑う。


「自由か……そう見えるならアレだけど。俺なんてただ、気ままに……楽しく、歌ってるだけだよ」


 楽しく。
 また、『楽しく』だ。


「さて、とりあえず合わせてみようか。この間はちょっと難しい感じに考えちゃってたみたいだから、そこまで気にしないでまずはラフに——」

「ラフってなんですか。RiZさんは、この歌に真剣に向き合ってないんですか」

「へ? いや、そういうことじゃなくてさ。まずは気さくに歌ってみよう、って話で——」

「そんなの、……わかりません」


 八つ当たりだとわかっているのに、苛々して、おさまらない。


 楽しくとか、自由にとか。
 「弦八らしく」なんて言われたって、そんなのがわかっていたらもっと、簡単だった。

 わからないから苦しくて、わからないから、——大切な、相棒みたいだったバイオリンもしまいこんで。

 気軽に触れるような、そんな音楽への向き合い方はしてこなかった。いつだって真剣で、真剣だったのに——音楽には、応えて、もらえなくて。


 この人と、何が違うんだろう。
 なんで僕はできないんだろう。
 なんで、ジュナさんは——この人の方を、見るんだろう。


「楽しい歌なんて……歌えない」

「アリアくん?」

「僕が楽しくたって意味がないんです、見てほしい人が……あの人が、満足してくれなきゃ……!」

 ジュナさんに、僕を見てほしい。僕の音楽を、もう一度、必要としてほしい。
 歌う理由なんて、それだけだった。


「……えっと」

 吐き出した伊調に、川和はしばらく黙り込んだ後で口を開いた。


(……馬鹿みたいだ)


 こんなこと、川和に言ったところでなんの意味もないって、わかっているのに。


「……よくわからないけど。アリアくんは、その……誰かのために、歌ってるってことか?」

「……」


 小さく頷くと、「なるほどな……」と、困った様子の声が返ってくる。それはそうだろう、川和からしてみれば、ただ伊調のエゴに巻き込まれて、振り回されているのだから。

「どんな事情があるか知らないけどさ。……好きとか、そういうのはないの?」

「……RiZさんは、どうなんですか」

「へ? 俺?」

「楽しいから……歌ってるんですか?」



 人はどうやって、音楽に向き合うのだろう。
 川和はどうして、——あんなふうに、自由に歌えるんだろう。


「俺は……まあ、楽しいっていうのももちろんあるけど。歌うことは好きだし」

 少しだけ、川和の声が低くなった。


「好きだから……歌えるなら、歌わないっていう選択肢はない、って。それだけだよ」

「歌わない選択肢はない……?」

「まあなんていうか、自由に歌えるような環境じゃなかったからな、俺は」


 困ったように、気まずそうに、川和は笑う。


「だから、正直アリアくんの環境はうらやましいよ。うらやましいけど……そんなの、俺が言うようなことじゃなかったよな。ごめん」

「……いえ、僕も……ごめんなさい」

「その、聴いてほしい人? が、どんな人かわからないけどさ……もしアリアくんが歌いたくないとか、苦しいとか思うなら……一度、言ってみてもいいんじゃないかな。苦しいとか、嫌だとかさ」

「え……」

「いやほんと、俺がどうこう言うようなことじゃないよな。でも、楽しい歌なんて歌えないって言うけど……一緒に歌うなら、やっぱり、楽しく歌いたいから」


 そう言うと、川和は「今日は少し休んだほうがいい」と言って帰り支度を始めた。


(ジュナさんに、言う……?)


 考えたこともなかった。だって、彼に必要とされるためには——歌い続けなきゃいけないと思っていたから。


(でも……相談くらいなら……)


 もしかしたら、何か、ヒントをくれるかもしれない。
 あの日、伊調を音楽に繋げてくれたように——目の覚めるような、何かを。



   *



 帰国しているという斑目まだらめに、少し強引な頼みだとは思いながらも会う時間を作ってもらって、伊調は彼のアトリエを訪ねた。


「ごめんね、バタバタしているから、あまり時間が取れなくて、わざわざ来てもらって」

「いえ、僕こそ……ごめんなさい、忙しいのに」

「いいよ。弦八があんなふうに必死に相談がある、なんて言うの、初めてだからね。どうかした?」

「あ……えっと……」

「もしかして、しずかくんとのデュエットの話?」


 切り出せない伊調を誘導するように、斑目が言ってくれる。
 こんなふうに、斑目が伊調の言葉を先回りしてくれることは今までにもあった。


 だけど、どうしてなのか——今はそんな斑目を、少し、怖いと思ってしまう。
 これから話すことを、彼がどんなふうに受け止めるのか読めないせいかもしれない。

「……ちょっと、行き詰まっていて。上手く、歌えていなくて……」

「弦八が? 珍しいね」

「その……RiZさんの歌に、どう、自分の歌を重ねればいいのかわからない……っていうか……」


 ぐっと、膝にのせた両手を強く握りしめる。
 言うなら、今しかない。きっと今言わなければ——もう、ずっと言えない。


「好きに、なれないんです……」

「ん? ……静くんが?」

「そうじゃなくて! その……自分の、歌が……と、いうか……音楽、が……」



 すうと息を吸い込んで、吐き出すように、続ける。



「……嫌いなんです、たぶん、もう、ずっと」


 ——言ってしまった。


「だから、苦しくて。音楽も、歌うことも……どうしても、楽しくなれなくて。どうしていいかわからないんです」

「……そっか」


 返ってきた言葉は、短いけれど思いの外優しい声色で、それだけでも安心した。

 ついに言ってしまった。
 ずっと、自分の中にあったもの。見て見ぬふりをして、そんなわけないと、そうであってはいけないと、目を逸らし続けてきたこと。


「音楽が嫌い、か……ふふ、少し、驚いたけどね」

「ごめん、なさい……」

「でも……いいんじゃない? それが弦八の、素直な気持ちなんでしょう?」

「えっ」


 あっけないほどに優しく受け止められて、驚きながら顔を上げる。
 そこにはあの日の、——出会った日のように優しい微笑みを浮かべる、斑目がいて。


「そういう素直な気持ちがどんな輝きを見せてくれるのか、俺は、興味があるな」

「え……」

「嫌いでもいいよ。嫌いなまま、そのままの弦八の音楽を、俺に聴かせて? その輝きを——俺に、見せてよ」


 細められた目の奥の、そこに自分はいないのだ、と思い知る。



(ああ……そっか)



 本当はずっと、わかっていた。

 もしかしたら、出会ったその日から。

 ジュナさんが求めるのは、「僕の音楽」なんかじゃなくて。

 それは、ただ、ジュナさんが求める輝きを見つけるための道具でしか、なくて。



(ジュナさんは……僕のことなんて、見ていない)


(僕の、音楽になんて……)



 足元が崩れていくような感覚を耐えるように、ぎゅっと、全身に力を入れる。
 これでもう、本当に、伊調が音楽を続けるために縋れるものはなくなってしまった。


 わかっていた。——それでも。

 あの日のジュナさんが、僕を救ってくれたのも——ほんとうなんだ。




To be continued…


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