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【EP2-5】「からっぽ」|アッバンドーネはまだ知らない
Arcanamusicaスピンオフ小説② 「アッバンドーネはまだ知らない」(伊調 弦八&川和 静)
著:衣南 かのん
5.
楽曲ができた、という連絡は、思いの外早く届いた。
送られてきた曲のタイトルは、『いつか晴れた日に』。早速聴いてみると、柔らかなメロディの中にどこか切なさのある、清々しいようで寂しいような不思議な曲だった。
早速曲と、歌詞を開いて譜面に起こしてみる。
伊調のいつものやり方で、一度譜面に起こして自分の中にインプットすることで、その曲の世界観をより引き出せるような気がしていた。
楽典のようなもので、アルカナムジカで渡される曲は作曲者や出典が見えないため、楽曲と対話するための方法だと思っている。
「……歌詞が、難しい」
曲を聴きながら、何度も何度も歌詞を追ってみる。
以前、アルカナムジカで『特別な一曲』としてもらった伊調のソロ曲、『ムーンライト・アリア』の時とは違う掴めなさに混乱する。
あの時は、まるで自分の内面を覗かれているような居心地の悪さがあって、それでも……だからこそ、歌詞の内容を理解しやすかったし、どう歌えばいいかもわかったけれど。
(今回のは、なんていうんだろう……僕だけの話じゃないような)
デュエットだから、というわけではなくて……歌詞の中に登場する『僕』も『きみ』も、自分からはどこか遠い気がして、どういう歌なのか、掴むことができない。
どんなふうに歌えばいいのか思いつかないまま、伊調はせめて譜面と歌詞を完璧に頭に入れようと、何度も曲を追った。
次の日曜日、伊調は川和との約束に赴いていた。
「えっと……アリアくん?」
「……こんにちは」
「こんにちは。……あー、なんか変な感じだな……あのアプリの歌い手と、こんなふうに外で会うの……」
「他の歌い手の方とは、会ったことありませんか?」
伊調は川和が、他の数名の歌い手と行ったディスティニーゲームを少しだけ見ている。だけどそれは知らないふりをして、わざとそんなふうに尋ねた。
「会ったことはあるよ。あるけど……ネットの中で知り合ったやつと、あんまりリアルで会うこともないっていうか。そもそもさ、この間は聞きそびれたんだけど……なんで俺が、RiZだって知ってたんだ?」
「……前にも言ったでしょう。僕の知り合いが、あなたの歌が好きなんです」
「いや、だからさ。その知り合いは、なんで俺のこと知ってるんだよ?」
「……」
これ以上は都合が悪くて、どうしようかと悩む。冷静に考えれば深く聞かれて当然のことだったのに、勢いで行動してしまった伊調はそのあたりの言い訳をどうするか、まるで考えていなかった。
(どうしよう、ジュナさんのことを言うわけにはいかないし……そうだ)
「……その時が来たら、わかります」
苦し紛れに思い出したのは、「まだ、その時じゃない」と言っていた斑目の言葉だった。斑目がまだ、というなら、伊調にとってもまだなのだ。
その部分は、譲ることができない。
「なんだそれ……あのアプリに関わる人間って、変なやつばっかなのか? まあいいけどさ……一方的に知られてるっていうのは、なんか、微妙に落ち着かないけど」
ぼそぼそと独り言のように呟く川和の方を振り返って、伊調はあえて、その目をまっすぐに見つめる。
「そう思ったから、僕もあなたに、本名を伝えたんです」
「ああ……伊調弦八くん、ね」
「僕はたしかに、あなたの名前を知っています。でも、それ以外は何も知りません。あなたも僕の名前は知っているけど、それ以外は知らない。それで、フェアじゃないですか?」
言い訳を隠すように少しだけ早口になった言葉に、川和はほんの少し、面食らったように目をぱちりとまばたきさせた。
そうして、「あー……」と低く唸ったかと思うと、軽く頭をかきながらため息をつく。
「あのさ。そんなに、気、張らなくていいから」
「え?」
「なんかこの間も……今日もだけど、どうも俺、君に敵視されてるような……いや、敵視っていうのとは違うのかな? なんか、変に警戒されてるっつーか、固くなってる? そういう感じするんだけど。
まあ、知らない大人の男相手だから、そうなるのも無理はないけどさ」
「……」
敵視、という言葉に、ほんの少し心の内を見透かされたようでドキリとした。
たしかに伊調は、川和のことをそういうふうに意識している節がある。だって、伊調にとって一番大切な——斑目の賞賛を、何も知らず一身に受けている人だから。
悔しいし、どうして、と思うし、負けたくないとも思う。そしてそれは、きっと伊調の態度にも表れていた。
「デュエットっていうのは正直驚いたけど、歌えるのも曲をもらえるのも、俺にとっては悪い話じゃないし。誰だか知らないけど、知り合いが俺のこと知ってるって言うならなおさら、変なこともできないしな。
……あっ、もちろん、最初からする気はないけど!」
「そうですか……」
少なくとも、デュエットに対して川和は前向きらしい、ということがわかっただけでも伊調にとっては収穫だった。
もっとも、「一度顔合わせして、練習してみないか」という連絡がきた時点で、川和が今回の件にも真摯に向き合おうとしてくれていることはわかっていたけれど。
「ていうか、俺の方こそ名前、名乗ってなかったよな。もしかしたらもう知ってるかもしれないけど……川和静です、よろしく」
「……よろしくお願いします」
伊調が思っていたよりも——頭の中で思い描いていたよりもずっと、川和は優しく、大人だった。
勝手な敵対心が、少し、薄らいでしまいそうになるほどに。
「それで? 練習場所はあてがあるって言ってたけど、どこに向かってるんだ? カラオケとか? の割に、駅前から離れてるけど……」
「ああ……はい、」
そうだ、今日は二人で練習をするために集まったんだった、と、本来の目的を思い出す。
そのために伊調もわざわざ、最寄り駅に出向いていたというのに。
行き先も告げずに歩いていたから、川和が不審がるのは当然だった。
「すみません、着きました」
足を止めた伊調に、川和が戸惑う様子で眉を寄せる。
「——僕の家です」
*
「いや、あの、本当に……やめておいた方がいいって、見ず知らずの男いきなり家に連れ込むの……!」
「川和静さんでしょ。さっき、ご自分で言ってたじゃないですか」
「そういうことじゃなくて! ていうか、改めて聞くけどアリアくんいくつ!?」
「十七歳です。高校三年生」
「いやいやいや……! ギリどころかがっつり未成年……! やばいって、捕まるから!」
「同性なんだから、大丈夫でしょ。それに、実家ですし、僕」
「そういう問題じゃなくて……!」
門の前に着いてから、かれこれ十五分ほど。
頑なに家に入ろうとしない川和に対して、伊調もだんだん苛立ちが増してきていた。
(たしかに説明もなしに連れてきたのは、悪かったけど)
そんなに気にすることだろうかと首を傾げる。自分が女子だったら川和が気にするのもわかるけれど、伊調は男だし、川和の身元は(少なくとも伊調からしてみれば)はっきりしている。
「大丈夫ですよ、両親は週末、仕事で家を空けているので」
「ますます大丈夫じゃない! いや、ご両親いても困るけど!」
「もう、強情な人だな……」
「未成年に対して成人が安易に近づく行為が社会的にどれだけ問題視されるか、君はもう少し考えてみてくれてもいいと思う!
この間のバーの待ち伏せも、あれ、ギリギリアウトだからな!?」
深い考えはなく、伊調にとっては防音室もあるし、機材も多少は揃っているし、家が一番都合がいい、というだけだったのだが——ここまで拒まれるなら、やめた方がいいのだろうか。
そう考え始めたところで、ギィ、と音を立てて門が開いた。
「弦八、お客様かな?」
「おじいちゃん」
「おじいちゃん!?」
門を開けた祖父が、川和と伊調の顔を交互に見て、伊調の方へ向き直る。
「こちらの方は?」
「……川和さん。勉強を教えてもらってるんだ」
「ああ……先生でしたか。これはどうも、弦八がお世話になっています。祖父の笙梧です」
「あ、ど、どうも……川和静です」
「いつまでもこんなところでもなんでしょう、さあ、上がってください。すみませんね、今日は僕しかいなくて」
「え、い、いえ、それじゃあ……お邪魔します……」
穏やかな笙梧を前にすると川和もさすがに何も言えないようで、そのまま、笙梧に続いて二人も家に入った。
祖父と別れて、練習室代わりになっている部屋に到着したところで川和は大きく息をついた。
「……びっくりした……おじいさんがいるなら、そう言ってくれよ……」
「言いそびれて」
「あのさ、まだ浅い付き合いでこういうこと言うのもなんだけど、アリアくん、言葉が足りないってよく言われないか?」
「マイクはこれでいいですよね。譜面台も一応、出しますか?」
「無視かよ。……ああ、まあ、うん。ていうか……すごい部屋だな」
ぐるりと、改めて川和が部屋を見回す。
アップライトピアノが置かれたアンティーク調の部屋は、元々兄と姉が子どもの頃のピアノレッスンで使っていた部屋だ。
こことは別にグランドピアノが置いてある部屋もあって、父や姉の練習部屋はそちらとなっているため、この部屋はほとんど使われていないし、入る人間もほぼいない。
最近では弦八が使うことが多く、マイクなどの歌収録に使える機材はこの部屋に置いていた。
「あのさ、さっき勉強教えてもらってる、とか言ってたけど……」
「……歌ってること、家族には言ってないんです」
「ああ、なるほど。……そっか」
納得したように頷いて、それきり、川和は特に深くは聞いてこなかった。
「とりあえず、通しで歌ってみましょうか。キー、このくらいで」
ピアノを軽く鳴らして、最初の音を確認する。
スピーカーから音楽を流しはじめ、二人は早速歌の練習を始めた。
「……ここのハモ、ちょっとズレるな。悪い」
「いえ、僕も……人と歌うの、慣れてなくて」
二人の練習は、順調とは言い難かった。
お互いに合わせるのが初めてなので、ある程度は仕方ないのだろうけれど、ブレス位置、声の重ね方、ハモリ……全部が微妙にかみ合わなくて、いま一ついい出来にならない。
「うーん、一回お互いの歌、聞いてみた方がいいかもな。それぞれのパートを歌ってみるか」
「はい」
「じゃあ、まず俺から。気になったところがあれば、どんどん言って」
「……わかりました」
音楽を流しはじめ、川和が自分のパートを歌い上げていく。
(……うまいな、やっぱり)
さっきまで二人で歌っていたときよりも、声ものびやかで聴きやすい。
それだけで、川和が伊調にかなり気を遣って歌ってくれていたのだということがわかった。
それに、何より——。
「……どうだった?」
「良かったと思います。音もズレてないし、聴きやすくて、のびやかで。……上手でした」
「お、褒められた。ありがとな。じゃあ次、アリアくんの番」
「……はい」
川和に音楽を流してもらって、今度は伊調が自分のパートを歌っていく。
だけど、自分でもあまりうまく声を出せていないことはわかった。
何かが喉につかえたようになって、メロディから浮いてしまうような感覚になる。
音は合っているはずなのに、音楽に合っていない……。
「……アリアくん、なんか、考えながら歌ってる?」
「……歌詞が」
「歌詞?」
「その……どうしても、わからなくて」
さっき、川和の歌を聴いた時、わからないはずの感情なのになぜか心が揺さぶられた。
きっとそれが、川和の表現力なのだろう。込められた想いがどんなものなのか、わからなくても伝わってくる。切なさとか、愛おしさとか——この歌詞の中にある、「誰か」への想い、のようなものが。
一方、伊調は未だにこの歌の詞の意味を捉えきれずにいた。
クラシックとの一番の違いは、きっと、ここだ。クラシックは、ある程度答えが見えている。どういう意図で作られた曲なのか、どういう想いが込められたメロディなのか。その上に自分の表現をのせて演奏すれば、形になっていた。
だけど、……歌は違う。
答えがなくて、その答えを自分で探さなければいけない。自分の中に似たようなものがある時は簡単だけど、そうじゃないと、すごく難しい。
伊調はこれまで、自分に近い曲ばかりを選んで歌ってきた。『ムーンライト・アリア』だけじゃなくて、他の人の曲をカバーさせてもらう時もそうだった。「なんとなくわかるな」というのが、歌う時の一つの指針になっていた。
だけど、今回は違う。答えがわからないまま、探るように歌っているから、のびやかに声が出ない。歌っている途中に考えてしまって、声が詰まりそうになる。
——自分の中が、からっぽだ、と、突きつけられているような気がした。
「歌詞か……うーん、別に、自分の思うように歌えばいいと思うけど。もっと自由にっていうか」
「自由……」
それが一番難しいのだ。伊調にとっては。
結局その日はなんだかうまくいかないうちに時間が来てしまった。
川和が職場に呼び出されたためだ。
伊調も出かける用事があったので、なんとなく、駅まで一緒に行くことにする。
「……そんなに複雑に考えなくてもいいと思うぞ。さっきも言ったけど、楽しくやろう」
「……」
電車を待つ間、川和は伊調の気を紛らわせるようにそう言ってくれた。
「……楽しく、ですか」
「俺もアリアくんも、初めてのデュエットなわけだから。最初から完璧にうまく、なんていかないよ」
「でも、」
「急いでレコーディングするわけでもないみたいだし……また時間作って、一緒に練習しよう」
「……」
川和は優しいのだと思う。無茶を言って強引にデュエットに巻き込んだ伊調にも誠実だし、一緒に歌うことを楽しもうとしてくれていることがよくわかる。
今日の練習だって、川和の方はほとんど問題なんてなかった。何度か歌う度に少し表現を変えて、どんな歌い方にしようかと迷う余裕すらあった。そして、そうして歌に向き合っている川和は——なんだか、とても楽しそうだった。
一方の自分はどうだろう。
歌詞の意味に躓いて、そのせいでちゃんと歌うこともできなくて。
なんでこんなふうに、駄目になってしまうんだろう。——歌では、音楽では、この人に負けたくないのに。
「……あ、電車来た。じゃあ、また連絡するから……どこかで、練習の時間取ろう」
「はい……」
先に電車に乗る川和を見送って、伊調も別の方面の電車を待つ。
そこへ、スマホが着信を告げた。
「……っ! ジュナさん!?」
『斑目ジュナ』と表示された名前に、どうしたって無条件にうれしくなってしまう。いつも伊調から連絡することがほとんどで、斑目から唐突に電話が来ることなんてほとんどないのに。
この間は川和のことを報告したばかりだったけれど、今回はまだ、特に伊調から連絡はしていない。今日川和と会うことも言っていないから、本当に偶然だった。
「はい、もしもし! 弦八です!」
「ああ、弦八。ごめんね、突然電話して」
「いえっ、うれしいです! どうしたんですか?」
「ふふ、ちょっと気になってしまってね。ほら、この間、曲ができたって言ってたから」
「ああ……はい」
曲が届いたことだけは、斑目に報告していた。よかったね、と、一言短いメッセージが返ってきていたので、てっきり話は終わったと思っていたけれど。
「静くんと、もう、歌った?」
「あ、えっと……今日、ちょうど練習をしていて」
「へえ! それはいいね」
「あ、でも、まだ……その、全然、なんですけど……僕が、あまりうまく歌えなくて」
「静くんは?」
「RiZさんは……すごく、上手でした。表現の幅も広くて……」
「ふふっ、やっぱりね。どんな曲かはわからないけど、静くんの歌っている姿が目に浮かぶなあ。……楽しみだ」
静、と、繰り返されるその名前にちくちくと心臓にトゲが刺さる。
斑目は、伊調のことにはまるで興味がないみたいに——川和の話ばかりを、聞きたがった。
「練習と実際に本番の気持ちで歌う時は、きっと見える輝きも違うと思うんだよね。ああ、見てみたかったなあ……」
「……あっ、ごめんなさい、ジュナさん。電車が、来ちゃって……」
嘘ではなかった。駅のアナウンスが、もうすぐ伊調が乗る予定の電車が来ることを告げている。
「ああ、そうなんだね。わかった、急にごめんね。それじゃあ、また」
「はい……また」
こんなふうに、斑目からの電話を自ら終わらせるのは——初めてだった。
To be continued…