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【EP2-2】「決めるのは自分だよ」|アッバンドーネはまだ知らない
Arcanamusicaスピンオフ小説② 「アッバンドーネはまだ知らない」(伊調 弦八&川和 静)
著:衣南 かのん
2.
川和から了承を受けた数日後、伊調は斑目にメッセージを送った。
——アルカナムジカで、RiZさんと歌うことになりました——
普段から斑目に送ったメッセージはなかなか返事がないけれど、今回も例にもれず、まだ既読もついていない。
曲を用意するのには時間がかかるということで、用意ができ次第アプリを通して連絡をもらうことになっている。
しばらくは少し、落ち着かない気持ちで過ごすことになりそうだった。
「弦八、おじいちゃん探してきてくれる?」
母親に頼まれて、伊調はあまり進んでいなかった予習用のノートを閉じて部屋を出た。
てっきり日本で何か仕事があるのかと思っていたのに、祖父は日本と家族が恋しくなった、という宣言をそのまま体現するかのようにずっと家にいる。
同じ家で過ごしていた時でもこんなに長い時間祖父が家にいることはなかったので、伊調はほんの少し、祖父との距離をはかりかねていた。
(どこ行ったんだろう、おじいちゃん……)
家の中では見つからなかったので、庭に出てみる。
自由な祖父ではあるけれど、外出する時にはきちんと告げていく人だから母が探してきて、と言ったということは家の敷地内にはいるはずだ。
少し探してみると、庭の奥の古びたガゼボに祖父の姿があった。
「おじいちゃん!」
「おお、弦八か。どうした?」
「お母さんが、探してたから……」
「ああ、そうか。もう少ししたら戻るよ」
そう言って、祖父はもう一度、ガゼボから庭園へ視線を戻す。
伊調の家の庭は母と、通いの庭師が丁寧に手入れをしているために、この時期はいくつかの薔薇が綺麗に咲いていた。
「薔薇を見ていたの?」
「はは、弦八は知らないだろうけど、ここの薔薇はもともと僕が美祢子さんと植えたものだからね。懐かしくて」
「……おばあちゃんと?」
祖父はいくつになっても、亡くなった祖母を名前で呼ぶ。
そうやって呼ぶ声にはいつも愛おしさや優しさが含まれていて、会ったことのないはずの祖母も弦八にとっては知っている人のように昔から話を聞いていた。
「この家を買った時にね。おばあちゃんが、これだけ広い庭に何もないのは寂しいからって言ってね」
祖母は若い頃イギリスに留学していて、その当時に憧れた庭園に近いものを自宅で再現しようと、いろいろ試行錯誤で植物と向き合っていたらしい。
その憧れが少しずつ形になっていった伊調家の庭は、今やどこか異国のおとぎ話の世界のような雰囲気になっている。
祖父も、両親も、兄も、そして話にあがる祖母もみんな、広い世界を知っているんだな、と思う。そしてその広い世界で、自分と自分の音楽を確立している。
伊調には、眩しいくらいに。
「弦八はいくつになったんだったかな」
「十七歳だよ……高校三年生」
「もうそんな年か。どうりで、大人っぽくなった」
そんなことないよ、という言葉を飲み込む。それはあまりにも、子どもじみている気がして。
「それじゃあ……そろそろ、進路を考える時期か」
ドキリ、と心臓が鳴った。見ているようで見ていないふりをしていた、自分の将来の話。
音楽コースをやめてからも、バイオリンは続けている。週に三度のレッスンも、毎日の自主練習も、欠かしたことはない。
長年染みついている習慣が抜けないと言ってしまえばそれまでだけど、それらすべてを手放すほどに潔くなれなかった、自分の弱さのようにも感じてしまう。
音楽の道に行くのか。
このまま、音楽からは離れるのか。
モラトリアムを求めるように普通科の高校に進学したというのに、結局決めきれないまま、二年が過ぎてしまった。
「弦八がどんな道を選ぶのか、楽しみだなあ」
だけど続く祖父の言葉はどこまでも優しいもので、伊調を追い詰めようとするものでは一切なかった。
「……聞かないの?」
「ん?」
「その……音楽の道に行かないのか、とか、そういうの……」
まるで自分が誰かに答えを求めるだけの子どものようで、口に出した言葉がそのまま気恥ずかしさとなって襲ってくる。
「そうだなあ……」
庭園を優しい瞳で見渡して、祖父が言う。
「僕にとって音楽は人生の全てだったし、何にも代えがたい……大切なものだった。もちろん家族も大切だったけれど、自分のあり方としてね。僕が僕でいるために、音楽は必要なものだったと思う」
「……うん」
「だけど、たとえばスポーツ選手はそれをスポーツというだろうし、恋人や、家族や……もっと別のものに、自分のあり方を置く人だっているだろう?
すぐには見つからず、探し続ける人だって当然いる」
そう言って祖父は——伊調の胸を、そっと指さす。
その仕草はとても優雅だけど、何かを示すようにきっぱりとしていて——手元にはないはずのタクトが、見えるような気さえした。
「決めるのは自分だよ。いつだって」
両親と同じだ。
そして、祖父がそう言うであろうことは、きっとどこかでわかっていた。
音楽をやれ、とは、祖父は言わない。両親も、兄や姉も、決して言わない。
その逆に、半端なことをするくらいなら音楽から離れろ、とも、言われることは決してなかった。
命令形で伊調の未来を縛ることを、伊調の家族は決してしようとしない。いつだって伊調の選択を待つし、支持してくれる。
いい家族なのだ、とても。
いい家族で、いい人たちで——それが、たまらなくなる時がある。
いっそ言ってくれればいいのに、なんていうのはあまりにも子どもじみたわがまま過ぎて、さすがに口にすることはできない。
(あの時も、そうだったな……)
伊調が、外部の高校に進学しようか考えている、と話した時。「それもいいんじゃないか」と、両親は口を揃えて伊調の決断を支持してくれた。
「いろんな世界を見た方がいいからな」と、父は言ってくれたけれど——違う。
伊調はいろんな世界を見るためじゃなくて……今いる世界から逃げるために、進学を選んだのだから。
部屋に戻ると、スマホに着信が入っていた。
ジュナさん、と表示された名前に、胸が躍る。
「……ジュナさん!」
「やあ、弦八。しばらく連絡ができなくてごめんね」
電話越しに、斑目は電波状況の悪い地域にしばらく行っていたのだと話した。展示会に合わせて、宝石の買い付けも今回の渡航の理由だったのだという。
「メッセージ見たよ。静くんとデュエットだって?」
顔が見えない声が、伊調を静かに追い詰めた。斑目の声色はいつだって穏やかだけど、だからこそ、彼の真意はいつも読めない。
「はい、あの……すみません」
「どうして謝るの? ふふ、変な弦八」
おかしそうに笑う斑目の声に、嘘はないように思える。
勝手なことをした弦八に怒ってはいないのだと、それだけでも安心できた。
「それにしても、静くんと弦八のデュエットかあ……楽しみだな」
「楽しみに、してくれるんですか?」
「当然だよ。君たちの輝きはどこか似ているけれど……やっぱり、違うものだからね。二人の音楽が重なったら、どんな輝きが生まれるのか——すごく楽しみだよ」
きっと、自分だけでは斑目のこんな言葉を引き出すことはできないのだろう。
そう思うと悔しくて、だけどまだチャンスはあるのだ、と思う。
このデュエットで、僕が、RiZさんよりもいい歌を歌えたら。
そうしたらジュナさんは——僕のことだけを、見てくれるのかもしれない。
RiZさんの代わりとしてじゃなくて、また、僕の歌だけを褒めてくれるかも……。
浮かぶ期待は全て独りよがりなものばかりで、だけどそれが今の伊調にとって、音楽を——歌を続ける上で、唯一の道しるべだった。
To be continued…