ガチ恋粘着獣のコスモ編はかなり絶望的なのかもしれないという妄想



 職場に友人どころか同期すらいないのでここに書きます。一週間雑談してない恐怖で死にそう。助けて。


 ただの感想です。


 “男女”のせいで拗れた関係性が”配信者と視聴者”という対等なものへ戻っていく話、スバル編。
 “配信者と視聴者”のせいで拗れた関係性が”男女”という対等なものへ収まっていく話、コスモ編。

↑勝手に前提としてますが、ここ話すと長いので飛ばします。




 コスモ編の結末は、相手を一途に思い続けた琴乃とコスモが結ばれて終わる。とてもハッピーエンド。
 でもこれは”2人にとっての”ハッピーエンドであって、それ以外、例えばこれを読む私達にはバッドな着地なんじゃないのか。仕事をサボってそう考えていた。

 それを象徴するのは『はるみ』の存在だ。琴乃をトイレで殴った辺りはかなり頭にきたけど、最後の「……名前 覚えてくれたんだぁ」「ズルをしたかいがあったわ」は涙腺にキた。こんな切ないセリフが言えてしまうキャラクターだなんて。
 ここで理解するべきなのは、”私達”は『はるみ』側の人間であるということだ。決して『琴乃』にはなれない。巨乳のコンカフェ嬢にも、推しがラインを気にする存在にも、決して絶対に未来永劫0%毫も微塵も一切なれない。
 そう考えると、このコスモ編が与えてくる印象はガラリと変わる。ある種の”暴露”なんじゃないだろうか。私達がはるみのように推しを愛でているとき、ゆっこのように推しを消費しているとき、そしてヒナのようにガチ恋しているとき、世界のどこかに『琴乃』が現れて私達のコスモくんから寵愛を受ける。そしていつか、「一般女性と結婚」という見出しがコンビニの棚に並ぶのだ。


 スバル編を思い返してみる。すると『ヒナ』と『はるみ』が非常に似たキャラクターであることが分かる。ガチ恋をし、同担に嫉妬し、ぐちゃぐちゃの感情が暴力として爆発した女だ。
 だけどヒナの方だけ、かなり前向きな結末を迎えていた。彼女は最後に微笑むことができたし、スバルは事あるごとにヒナを思い出しては悶々と呻吟している。(というかファンレター呼んで泣いてたよな!?!? お前!!!)
 スバル編の結末が何故前向きなのかというと、”対等性”に気がつけたからだと思う。
 沢山の視聴者に慕われる配信者──そして配信者はファンの女を食い放題。こう考えると、そこには君主制のような構造が確かにある。
 しかし、配信者は視聴者がいなければ成り立たないし、視聴者は配信者がいなければ供給が無い。
 『清水薫』が承認欲求やスパチャを得るには、〈スバルくん〉を提供しなければならない。その特性ゆえ、彼は1人のファンだけを愛することはしない。〈スバルくん〉とは、「ヒナだけのスバルくんじゃなかった」からこそ成り立っているコンテンツだからだ。
 『ヒナ』は〈スバルくん〉を推し続けて金と時間を貢いでいく。それは一見弱者に視えるが、しかし彼女は『清水薫』を愛さなくていい。さらに言えば、”ファンは推しを複数作ったり別の推しへ移ったり”できてしまう。この辺りは序盤でスバルが言及していた。

 〈スバルくん〉という架空のコンテンツでのみ成立する、《画面上の契約》

 その対等性に気がつけたから、ヒナは前向きな結末を迎えられたのだろう。私はそう思う。


 でもはるみは違った。
 何故か?
 これはちょっと暴論なのだが、コスモのせいなんじゃないだろうか。

 コスモだけそもそもの”目的”が違うのだ。そのため、彼はある意味”最も冷たいヤツ”だと言えてしまう。
 彼は2巻で「俺は友達とただ楽しい動画をつくっていたかった…! それだけでよかったのに…!」と発言している。最初から金や承認欲求が目的でないなら、究極ファンなんて要らないのではないだろうか。だから序盤では、過剰な好意を寄せるファンに嫌悪感を抱いていたのでは? それがフェスの一件を経て、ファンの恐ろしさと”盾”を知り、「恩返しがしたい」と感謝をするようになる──。という成長をしている。
 反対に、スバルはファンのことが最初から大好きである。ヤらしてくれるから好き〜みたいな程度ではない。この野郎は、りこめろにもヒナにも赤面して惚れているような表情を浮かべていた。ファンの女の子が、ちゃんと本当に好きなのだ。さらには過剰な愛を寄せるファンを見て、ゾクゾクと悦んでいた。ここはコスモと決定的に違う点だ。
 彼はファンを愛していた。
 そしてファンであったヒナは、例え浮気されても、「くそみてーな恋愛。でもそんな恋がサイコーだったんだもん」と言えた。

 はるみは言えなかった。


 フェスの後、コスモの実名はそのまま宇宙(コスモ)であると分かる。スバルとは違う。 
 つまり、彼は──最初からコンテンツじゃなかったのだ。
 コンテンツでないならば、スバル編のような”対等性”なぞない。
 だからこそ、ファンであるはるみから「不誠実だ」と切り付けられ、また彼女となった琴乃はファンを辞めた──のではないだろうか。(あるいは、琴乃はヒナと対照的に、そもそもコンテンツではなく本人を愛していたのかもしれない)


 “配信者と視聴者”が”男女”に還元されたとき、もうそれはファンが太刀打ちできる戦場ではなくなってしまう。いかに運が良く、ズルをしあえるか。愚にもつかないただの現実的な恋愛が繰り広げられる。
 そこにファンの入り込む余地はない。入り込みたければ、推しがバ先に訪れるような幸運と、ファンでないと偽るようなズルが、必要不可欠である。

 そのような絶望感を、コスモ編から覚えることができるのだと思う。以上です。


 読み返したら、なんかコスモアンチみたいでヤだな。コスモもスバルもめっちゃ好きなのに。コスモが氷結をじるじるやっている絵を見て精神を保っている。

 りこめろについても語りたいことがある。彼女だけマズローの段階説で位置付けが違うのでは? とか。

 読みにくい文を読んでくれてありがとうございました。余談ですけど、はるみさんは2巻の時点で実は出てきてます。探すめろ。


 あー、クリスマスに何書いてんだ。助けてくれ。



いいなと思ったら応援しよう!