読書感想文(387)恩田陸『三月は深き紅の淵を』


はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は約一年ぶりの『三月』です。
毎年三月に読もうと思っていたのですが、今年は四月になってしまいました。
以下、以前の感想文です。

感想

さて、三回目にもなると、流石におおまかな流れは頭の中に入っています。
しかし、私は頭が良くないので、どこがどう繋がっているのかはまだ把握できていません。
そろそろ、どの章でどの『三月』がどう繋がっているのか、整理してみてもいいかもしれません。もはや、論文みたいになりそうですが……。
一応四章にヒントはあって、「外側の物語」と「内側の物語」という言葉が出てきます。これが作中に出ているのですから、最低でも三重構造になっていることになります。
これについて、四章の「私」は、この二つが上手く重なるように作ろうとしている、というのもヒントになると思います。
また、作中で「私」と「彼女」が出ていることにも気をつけなければなりません。
これはもう、それぞれの場面を抜き出して並べるしかなさそうですね。かなり大変な作業ですが、この本とは長い付き合いをしようと思っているので、楽しみです。

ここからはいつも通り、印象に残ったところを引用しつつ書いていこうと思います。
ただ、この作業も三回目なので、本を読んでいる途中で「あ、これ感想文で引用したところだな」と思います笑

夜、暖かい家の中で、これから面白い話を聞くのを待っている。恐らく、大昔から世界中で、なされてきた行為。やはり、人間というのはフィクションを必要とする動物なんだな。まさに、その一点だけが人間と他の獣を隔てるものなのかもしれない。

P55

まずは第一章より。
結構前に読んだ『サピエンス全史』を思い出しました。
でも『三月』はもう二十五年前に書かれた作品です。
この説については、どこから「人間」とするかが問題になります。
この説を言葉通りに受け取るならば、「人間」はフィクションを必要とし始めるようになって他の獣と道を分かった、ということになります。
「フィクション」という言葉も曲者で、『サピエンス全史』にのっとるなら「虚構」という意味で取れますが、『三月』のこの一節では「物語」という意味に思えます。
「物語」といえば小川洋子さんの物語観(『物語の役割』など)が印象的ですが、それぞれの作家の物語観を体系的に学べたら面白そうだなと思いました。既に誰かがまとめてくれていそうな気がしますが、探したら見つかるでしょうか。

出だしが、『私たちはこうして、冷たい夜の光の海の底を、口を閉ざしたまま走ってゆく』だったかな?

P58

これは第一章の作中人物が『三月』の第二部『冬の湖』(『夜の話』)について語る場面です。
第二章の冒頭は「週末の夜の東京駅は、ほのかなセピア色をしている」から始まるので全く違うのですが、第二章の作中人物は『三月』について次のように考えます。

いつも私たちは夜の海を走っている――私たちは闇の底を一人ぼっちで、望んでいない結末に向かって走る――

 ああ、これも『三月』の一節だ。

P142

なんとなく似ている雰囲気です。
そういえば、出だしが「私たちはこうして、冷たい夜の光の海の底を、口を閉ざしたまま走ってゆく」ってなんか変だな、と思いました。
これが冒頭文なら「こうして」が何か不明確です。まあ、そういう始め方もできなくはないですが……。
ただ、第一章においては『三月』の本文はまだ存在していないので、そういう意味の伏線だったのかもしれません。

「『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』ね。あたしは聖のファンだったわ」
「あたしは黎二兄さんの方が」

P169

これは第二章の登場人物たちが『三月』の第三部について語る場面です。
『麦の海に沈む果実』の登場人物と名前が一致、そして第四章で書かれようとしている『三月』の作中人物とも名前が一致します。
ただ、その直前で出てくる「悦子」という名前は聞き覚えがありません。
いたかな、そんな人。
ただ、この章で語られる『三月』の第三部は『麦の海に沈む果実』とは全然違う話です。(血のつながりは少し関係しますが)
そう考えると、恩田陸さんの中に色んなアイデアがあって、その中のありえたかもしれない物語が、この『三月』の中の『三月』に現れているのかもしれないなと思いました。
ちょうど、第二章で「いいものを読むことは書くことよ。うんといい小説を読むとね、行間の奥の方に、自分がいつか書くはずのもう一つの小説が見えるような気がすることってない? それが見えると、あたし、ああ、あたしも読みながら書いてるんだなあって思う。逆に、そういう小説が透けて見える小説が、あたしにとってはいい小説なのよね」(P161)という一節があります。
『三月』の感想文を書きながら、『三月』の登場人物と同じような事をやっています。これがこの作品の面白い所です。
言い方が悪いですが、『三月』は読んでいる時よりもこうやって色々と考えている時の方が楽しいような気がします。

予告編を書いていると、いつも吉原幸子の詩の一節を思い出す。「書いてしまへば書けないことが、書かないうちなら書かれようとしているのだ」。まさにこの心境である。

P338

孫引きで申し訳ないのですが、今この心境が少しわかります。(というのもおこがましいのですが)
なぜなら、最近初めて自分で小説を書いてみたからです。
書かないうちはすごく面白そうな小説が頭の中にいっぱいなのに、いざ書き始めると全然書けません笑
ちなみに、今調べてみると、恩田陸さんは「予告編と本編の間で」というエッセイの中でも引用しているそうです。メモメモ。

最後に、気になった細かいことをいくつか。
まず、第一章で語られる『三月』の第一部の話について。登場人物たちは「壮年」とされていますが、『黒と茶の幻想』はもう少し若かった気がします。
と思って調べたら、四十手前でした。これは私の勘違いでした。
大学生時代の回想が多いから、若いイメージがあったのですね。

次に、これも第一章ですが、校庭に机を並べて9を作る話。これもどこかで読んだ気がします。『黒と茶の幻想』なのか、恩田陸さんの他の短編だったか、或いは『三月』のこの部分で読んだだけだったのか。
またシリーズを通して読まねばなりません。

もう一つ、小泉八雲について。第四章で作中の各章に登場させることを仄めかしており、第一章と第二章には登場しましたが、第三章には出てこなかった気がします。これは次読む時に注意したいです。

おわりに

今回も楽しかったです。
この本は何年もかけて読み解いていこうと思っているので、今後も楽しみです。
ということで最後まで読んでくださってありがとうございました。


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