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誰かの目を意識せずに発信することが、セラピーなのよ。

タイトルの通りなんだけど、誰かの目を意識しながら作る創作物っていうのは、とてつもなく難しい。

だからと言って、何かを形にする(した)時は、自分の中だけで完結して「はい、お終い。」とはならないのも人間の性だったりするから、どうもタチが悪い。せっかく作ったのだから、誰かに見てほしいと思うのが自然な流れだと思う。

私の事を知らない誰かが、私の書いた文章を見て「あーつまんね。」とか「コイツ怖」とか思っても、それはコメントでも頂かない限り、私にはわからない。

という事は、好きに書いてもいいのでは?という結論に至る。何なら、そう思われている事が私にはわからないのなら、そんな意見は存在しないのと同じだという事になる。


人の心に潜む、承認欲求というバケモノ

人間に生まれてしまった以上、誰でも、おそらくはほとんどの人達が自分を認められることに対してある種の安らぎを覚えてしまう。

それがきちんとした対人ならば問題ないと思うが、ネットが普及した今、個人的に恐ろしいのはリアルが仮想に浸食されている点だ。

そしてしばしばその承認欲求を満たすためには、多様性を求め、自分らしさを求められながらも、現実を生きてみると実際は真逆の性質である「汎用性」や「没個性」を突き詰めて行くのが妥当な線に思う。
なぜならば、承認欲求は共感が必要不可欠だから。

まぁ、だからこそネットにはせめてもの心の居場所を求めてしまうのだろうけど。ようやく求め見つけた居場所の中で、好きに自分の意見を言えないのであれば、それはもうアナタの意見ではなく承認欲求というバケモノの意見だという事になる。

ただもし、もしもほんの少しでも心のどこかで、誰かの評価を欲してしまうなら、それは自分が居場所を欲しがっているサインなのかも。

承認欲求の強さは心のバロメーター。
どんな化物も、それより自分が強かったら可愛いペットになるよね。
飼い慣らそう。化け物なんか。



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