空に吹く

屋上の風は、地上で感じていたものに比べると少し冷たくて、私の身体すべてに向かって四方からぶつかってくる。肩にかけている薄いストールが、強い風に煽られて揺れる。今、押さえているこの手を放したら、この布は一気に空へと舞い上がって、ここに戻ることはないのだろう。年末のバーゲンで買ったこのストールに特別な思い入れなんてないけれど、私は手を放せずにいた。

学校の屋上なんて、初めて来たかもしれない。学生の頃は、もっとどきどきする場所のように思っていたけれど、実際来てみるとそんなに魅力的な場所ではないなと思う。ただ広い空間に、胸の高さまでの頼りないフェンスが立っているだけの場所だ。

学生の頃に感じていた不思議な魅力は、きっと「立ち入り禁止」という言葉によって作り出されたものだったのだろう。入ってはいけない場所。してはいけないこと。あの頃の私たちは、きっとそういうものから発せられる独特の空気を敏感に感じ取っていた。

屋上に入ってはいけません。髪を染めてはいけません。お酒を飲んではいけません。タバコを吸ってはいけません。

数えきれないほどの禁止に囲まれて生きていたあの頃は、それを窮屈だと感じる時もあれば、その窮屈さの中でどうにか楽しんでやろうと逆にわくわくしている時もあった。

お酒は飲まないから、スカートを少しだけ短くした。タバコなんて吸わないから、靴のかかとを踏んで歩いた。

小さな禁止を破る度に、先生たちに怒られる。怒られながら、満足する。

目には見えない大きな流れに負けまいと、必死に破った小さな禁止たちは、いつの間にか消えてしまった。どれだけ短いスカートを履こうと、型が残るくらいかかとを踏もうと、誰にも気にされなくなった。誰にも怒られなくなった。

気づけばもう、お酒を飲むことも、タバコを吸うことも許されていた。あんなに禁止だらけだったはずの世界は、いつの間にか自由という言葉が台頭して、窮屈だったあの頃は、輝く思い出として箪笥の中に仕舞われた。

禁止されなくなった途端に、急激に熱が冷めるようだった。お酒もあまりおいしいと思わなかったし、タバコなんて毛嫌いするようになった。私はなんてつまらない人間なのだろうと思いながら、自分は本当は真面目だったのかと驚いた。

歳をとる度に禁止が減り、禁止が減る度真面目になった。

真面目に勉強し、真面目に試験を受けて、真面目に働いた。

私が働く場所として選んだのは、あの頃窮屈に感じていたまさにその場所で、社会人になって5年、禁止に囲まれた生徒たちと毎日向き合い、まさにあの頃怒られていた自分の影を見ながら、毎日必死に対抗する生徒たちの姿を見守っている。

「え、先生?」

ハタハタと風になびくストールを押さえながら、私は背後から聞こえる声に驚き振り返った。

そこには、お弁当を片手に立ち尽くす男子生徒の姿があった。

知らない顔だ。受け持っていないクラスの生徒だろう。

「なにしてんの?!」

男子生徒がこっちに向かって走ってくる。私が後ろに倒れるより先に、強く右手を掴まれた。反射的に放してしまった手から、ストールがするりと抜け出て、屋上の風にさらわれた。空に放たれたストールを目で追う余裕もないほど、目の前の生徒は動揺している。私は、なぜか冷静だった。

「まって、なに、してたの、先生。」

強く掴まれたままの手首から、彼の熱が伝わってくる。そんなに強く掴まれたら赤くなってしまう。

「とりあえず、こっち、来て。」

彼は絶対に離すまいと右手を強く握ったまま、左手に持っていたお弁当箱を床に置いた。

「自分で越えたんなら、戻れる?」

彼と私の間にある頼りのないフェンスは、えい、と力を込めてジャンプすると簡単に越えられた。ただ、今彼に右手を握られている状態では、少し難しい。

「手、放してもらえる?」

私がそういうと、彼は顔を強張らせた。私が一瞬の隙に倒れていかないか心配なのだろう。もうここまで止められてしまったら、今更ふいをつくような真似をする気分ではなかったし、この生徒の心に、一生残るかもしれない映像を植え付けるのは気が引けた。

「大丈夫だから。」

彼の心配そうな目を見て、ゆっくりを手を放すよう促した。慎重に手を放した彼は少し後ろに下がって、私がフェンスに両手をかけたのを見ると、やや落ち着きを取り戻したようだった。

先ほどと同じように少し力を込めてジャンプする。カシャン、という軽い音がして、私は一度越えたフェンスの向こう側に戻った。

私が脱ぎ揃えていた靴を履いていると、男子生徒は腰が抜けたようで、へなへなとその場に座り込んだ。

「はーーー、めっちゃ焦った。」

がしがしと頭をかきながらうつむいて座り込んでいる彼が、赤色の名札をつけていることに気が付いた。どうやら3年生のようだ。

「ここ、立ち入り禁止でしょ。」

私は、飛んで行ってしまったストールのことをぼんやり思い出しながら、彼の横に座った。

「いや、この状況でそれ注意する?先生、俺なんかよりもっとやばいことしてたじゃん今。」

「別に、やばいことって…。」

「やばいっしょ。完全に。教師が学校で飛び降り自殺なんかしちゃ。」

はあーーーと大きなため息をつきながら、彼は持ってきたお弁当箱に手を伸ばした。

「落ち着いたら腹減ってたの思い出した。先生、お昼食べた?」

「ええ、食べたわ。」

「は?まじ?ご飯食べて死のうとしたの?」

彼の驚いた顔を見て、私は初めてそれもそうだなと思った。なぜ、死のうとしていたのに私はお腹なんて満たしたのだろう。

「なんで、あんなことしたの?」

おかずを口に入れながら彼が尋ねる。彼に見つかった瞬間から、絶対に聞かれるだろうと思っていた質問だった。

「仕事に疲れちゃって。」

これは、彼に聞かれると悟ったその瞬間から、用意していた答えだった。とりあえずこう言ってしまえば、仕事に疲れた高校教師の、一時的な気の迷いとしてでも受け取ってくれるのでは、と期待を込める。

「ふーん。」

彼はそれだけ言うと、もくもくとお弁当を食べ続けた。

てっきり、先生少し休みでももらえば?とか、仕事大変なの?とか突っ込んで聞いてくると思っていたので、私は拍子抜けしてしまった。今はとにかくお腹が空いていて、とりあえず空腹を満たした後にいろいろ聞こうとでも考えているのだろうか。

「それ、嘘だよね、先生。」

どきりと心臓が鳴る音がした。彼は変わらず、お弁当を食べ続けている。おかずは小さなハンバーグが残るだけになっていた。

「どうしてそう思うの?」

「顔見て分かった。」

「顔?」

私の方を見ることもせず、そう言い放った彼には、なぜか自信があるようだった。

「顔って、どうして?」

残っていた最後のハンバーグを口に入れると、彼は弁当箱のふたを閉めた。

「見たことあるんだ。そういう顔。」

口に入ったハンバーグのせいでやや聞き取りにくかったが、彼は確かにそう言った。

「見たことある顔?」

私がいろいろと質問される立場であるはずなのに、いつの間にか私ばかり彼に質問している。なんだか、この子は、よく分からない。

「顔が似てるとか、そういう話じゃないけど、なんていうか、先生が俺に気づいて振り返った時の顔、俺見たことあるんだよね。」

「どういうこと?」

振り返った時というと、私がまさにフェンスのあちら側にいた時のことか。

「俺の父ちゃんと、同じ顔してた。」

「お父さん?」

話の流れが見えず、私はただ質問を繰り返す。彼はすっかり食べ終えたお弁当箱を丁寧に包みなおして、あ、お茶忘れた、と小さく呟いた。やがて、ふう、と一息つくとフェンスに寄り掛かるように座り、私と目を合わせた。

「俺の母ちゃん、自殺したんだ。」

「え?」

「俺が、中2の時だったかな。精神的に病んじゃってさ。俺は部活で、家に帰ったら母ちゃんが居間で首吊ってた。」

上手く言葉が出てこなかった。今まさに自殺を止められた人間として、何も言うことが出来なかった。

「まいるよ、ほんとさ。俺多分一生忘れないし、あの光景。」

中学2年と言えば14歳くらいか。その歳で大切な人の死を目の当たりにしたこの少年は、一体どうやって今まで生きて来られたのだろう。

「で、母ちゃん死んでから、父ちゃんめちゃくちゃ暗くなってさ。いや、そりゃそうなんだけど、もう父ちゃんまで死んじゃうんじゃないの、ってくらい落ち込んで。気抜いたらふっと死んじゃいそうな感じで。今はだいぶマシになってんだけどね。」

そこまで話を聞くと、なんとなく流れが理解できた。

「で、さっきの先生の顔が、母ちゃんが死んだときの父ちゃんの顔にそっくりだったってわけ。」

「…そう。」

私は、目の前にいるこの少年が、私より先に、それもまだ子供である時期に、大切な人の死を経験したことにただただ驚き、今こうして私と向き合って座っているという事実が、奇跡のようだと感じていた。

きっと私なら死んでいる。現に、そうしようとしたのだから。

「あのさ、俺、思うんだけど、」

私は静かに彼を見た。彼の目は、この世で一番深い黒色だった。

「死んでも、生きてくんだよ。」

「死んでも…?」

「そう、生きてくの。俺分かってんだもう。母ちゃんが死んで、一晩泣きつくしたけど、いつの間にか眠ってて、朝日は昇ってて、トイレだって行きたくなった。続くんだよ、死なない限り、生きてくことって。」

生きていくことは、続く。大切な時計をなくしても、大切な人がいなくなっても、自分が死なない限り、続いていく。

「生きてるうちはさ、その流れから逃れられないんだよ。先生だって、腹減ってたから、今日も昼飯食ったんでしょ。」

朝起きる。顔を洗う。歯を磨く。服を着替える。ご飯を食べる…。止めない限り、続いていく生活の中に、私は今日も、気づかぬうちに、生きていた。

「どんだけ嫌になってもさ、生きてくことは続くんだから、自分で止めようなんてしても意味ないって思うよ。死ぬために生きる一日なんて、もったいないっていうか…うまく言えないけどさ、ほんと、意味ないと思う。」

「でも…私…」

うまく話せない。飛んで行ったストールが脳裏に浮かぶ。薄いピンクのストールの向こう、懐かしい人の影が見える。

「俺と父ちゃん、二人で決めてんだ。自分で生きることを止めるのは禁止って。」

膝の上に冷たい感覚を覚えた。頬を伝うときは暖かいのに、膝の上に落ちるときは外気の冷たさを纏っているようだ。

「父ちゃん本気で落ち込んでさ、俺に一回だけ、死のうかって言ってきたことがあって。俺も、どん底の父ちゃんをそれ以上見てられないと思ったし、まあそれもいいかなと思ってたんだけど、いざ死のうって思ったら、急にトイレに行きたくなってさ。で、トイレに駆け込む俺の後姿を見て、父ちゃんが泣きながら爆笑してた。それまで張ってた糸が切れたみたいにさ。で、気づいた。もう俺たち母ちゃんがいなくても生きてんじゃんって。なんだかんだ、ちゃんと生きてんじゃんって。それならもう、ここで止めるのはもったいないんじゃないかって。死ぬまで、生きてやろうぜって。」

彼の声が、私の耳にするりと流れ込んでくる。その度に、目の奥があつくなる。不思議だ。あの人がいなくなってから、今までずっと、泣けなかったのに。

「だからさ、先生も、止めるの禁止にしよう。」

生きることを、止めるの、禁止。

大人になってから、何かを禁止されるとは思わなかった。もう私を縛る決まりは何もなくて、全ての決断は私の自由だと思っていた。

あの頃、破ることに必死だった小さな禁止事項たちを思い出して、ふいに懐かしくなった。目の前に座るこの少年は、まだその窮屈な世界から抜け出していない。それでも、私より何倍も制限された世界に生きる彼が、なぜだか私よりずっと自由に見えた。

大切な人の死を受け入れて、死ぬことを禁止して、これから先も、生きていく。特別なことは何もない。ただ毎日、朝起きて、夜になったら眠る。何も変わらない普通の生活を、これからも続けていくという義務。

「…生きてても、いいのかな。」

ようやく声に出せた言葉は、口から出てそのまますとんと地面に落ちるかのような弱々しいものだったが、彼はそれをしっかりと拾い上げた。

「当たり前じゃん。申し訳ないとか、私だけ生きててごめんとか、思わなくていいんだって。だってもう、相手は死んじゃってるんだよ。こっちばっか気にしても仕方ないんだ。」

突き放すようで、優しく励ましてくれている。これでは、どちらが教師か分からない。そう思うと、この状況がなんだかおもしろくなって、笑ってしまった。

私がふっと吹き出すと、彼もへへっと笑みをこぼした。

「ま、もう大丈夫そうだね、先生。俺、授業あるから行くわ。」

そう言いながら立ち上がると、彼は空のお弁当箱を片手にスタスタと歩き出した。

「ありがとう。」

遠ざかる後姿に声をかけると、彼がくるりと振り向いた。

「俺が屋上で弁当食べてること、見逃してくれるよね?」

私は、ああ、そういえば立ち入り禁止だったな、と思い出し、胸元で小さく手で丸を作った。ほっとした表情を浮かべた彼が、昇降口の奥に消えていくのを見届けて、私は空を見上げた。

飛んで行ったストールは、今頃どこを漂っているのだろうか。もうここには戻らないあの淡い色を思い浮かべて、私は静かに目を閉じた。

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