終焉の星
「星が消えるんだって。」
「なに、それ?」
わたしのベッドの横には、いつも同じ丸椅子が置いてある。
そこに腰かけて、慣れた手つきで真っ赤に熟れたリンゴを、器用にうさぎの形にしている彼が、静かに言った。
目線は手元の果物ナイフに落としたままだったので、彼がどんな表情でそれを言ったのか、いまいち私には分からなかった。
「はい、できた。」
「ありがとう。」
彼が差し出したリンゴを受け取って、口に入れる。
さくり、といつもの食感がした。うさぎの形にしたところで、リンゴ自体の味は変わらないはずなのに、なんとなく普通のリンゴよりおいしい気がするのはなぜだろう、と私はいつも思う。
「おいしい?」
「うん、おいしい。」
「味は普通のリンゴなのに、うさぎにすると何故かおいしく感じるだろ。」
彼は私が思っていたことを、少し微笑みながら口にした。もしかして、顔にでも書いていたかな、と少し心配する。
テレビもなく、永遠かと思われるほどの静寂が保たれているこの病室に、夏の終わりの西日が差しこんでいる。窓に背を向けて座る彼の後ろから光が当たり、まるで彼が放つ後光のようだ。オレンジ色の光は彼の白いシャツを通り抜け、この小さな四角形の箱の中、四方八方に散っている。
日中、人や街を焼き尽くすように照りつけていた夏の太陽は、今静かにその姿を変えようとしている。つい数時間前まで殺人的な熱量を与えていたかと思えば、今は私の目の前に座るこの人を、こんなにも優しく照らし、私の心を穏やかにする。
「さっきの、どういうこと?」
さくりさくりとリンゴを口の中で味わいながら、私は彼に尋ねた。彼は一瞬ぽかんとしたが、すぐに察しがついたようで、ああ、と言った。
「星が、消えるんだって。」
星が消える。
もうすぐ30歳になるが、この言葉を聞いたのは今が初めてだ。おそらく、はてなマークが顔に浮かんでいたのだろう。彼が私の顔を見てはは、と笑った。
「ごめんごめん、見当つかないよな、こんな話。」
「うん、びっくりするほど分からない。何なの?」
彼は最後の一切れのリンゴをうさぎへと変えて、果物ナイフをティッシュで拭いている。
「最近、テレビもラジオも新聞も、世界中がこの話題で持ちきりなんだ。」
「星が消えるって、ニュースでやってるの?」
「そう。俺もあんまり専門的なことは分からないから、うまく説明できないけど、どうやら今、太陽系の星の数がすごいスピードで減っていってるってのが、研究で明らかにされたらしい。」
「太陽系の星が減る?」
「有名な惑星は消えてないよ。土星とか木星とか、そういうのはまだ。でも、皆が知らないような小さな星から、学者の間では結構有名な惑星まで、大小問わず消えてるって。」
「なに、それ、なんで消えてるの?」
「それが分からなくて、学者たちは今必死に調査中なんだって。爆発とか、ブラックホールとか、いろいろ言われてたけど、結局宇宙なんて解明されてないことの方が多いわけだから、結構お手上げみたいだけどね。ただ分かってるのは、一日に平均して10個前後の星が消えてるらしい。」
「へえ~」
星が消えるなんて、想像してもよく分からない現象だと思った。
例えばこのまま途切れることなく消え続ければ、晴れた日にいくら夜空を見上げても、そこには満天の星空ではなく、ただ真っ黒で何の光もない空間が広がっているだけ、ということになるのだろうか?
小学生の頃、夏休みの宿題で、夏の大三角を観察してまとめなさい、なんて面倒なものがあったが、これからの小学生はそれをしなくてもいいということなのだろうか?
私にとって、星を見るという行動に時間を費やしたのはその宿題の為だけで、今星が消えていると聞いても、直接的に何か困ることはないように思える。
星座は産まれた時期で当てはめているだけだし、そもそも星座を気にするのは朝のニュースの星座占いの時くらいだ。
ああ、これから産まれてくる子供達は自分の星座を目で見れなくなるな。でもプラネタリウムに行けばそれなりにリアルな夜空に丁寧な説明つきで見られるか…。
浮かんでくるのは大したことのない問題ばかりで、きっとニュースで取り上げているのも、今だけなのだろうという気がしてきた。
「それで俺、今日仕事辞めてきたんだ。」
「え?」
彼が発したあまりに唐突な言葉に、思考が一瞬止まってしまった。
「どうして…」
まだ彼の言葉に驚きを隠せない私の目を、彼は静かに見つめた。
彼の後ろから差し込む西日が眩しくて、私は思わず目を細めた。どこかで星が消えているかもしれないこの一瞬でも、太陽は何の変わりもなく彼を照らし、この世界に深い闇を連れて来ようとしている。
「どうしてこの話題で持ちきりなのか、最初は俺も分からなかった。でも、最初の報道からずっと、追いかけるようにニュースを見ていて、毎日少しずつ、いろんなことが明らかになってきてる。
そして、昨日の夜、ある学者が言ったんだ。
地球も、太陽系の惑星であることを忘れてはならないって。」
心臓の奥、今まで決して触れられなかった部分が、大きく音を立てて跳ねた気がした。呼吸は一瞬止まり、脳へと酸素を送り込めなくなった。
「それは…」
「このまま星が消え続けるなら、いつ地球が消えてもおかしくないってこと。」
先ほど大きく跳ねた心臓が、その余韻でどくどくと音を立てて鳴っている。今ここで私は間違いなく生きているんだ、なんて、心に追いつけない頭が、そんなことを呑気に考える。
「俺たち人類は、いつ消えるかも分からない状況にいるんだってさ。」
パチ、と彼が果物ナイフを片付ける音が響いた。人類がいつ消えるかも分からない、なんてまるでSF映画のようなことを言った彼の言葉は、どこか他人事で素っ気なく聞こえた。この人はハリウッド俳優にはなれないな、とこんな状況でも少し面白くなって、笑いを堪えた。少しずつ頭が再起動する感覚を得て、わたしはようやくまともに言葉を繋げることが出来るようになった。
「いつ消えるかも分からないって、ずいぶん無責任な推測なのね。」
最後のうさぎリンゴに手を伸ばす。可愛いし美味しいし、食べてしまうのが少し勿体無いけれど、また彼に剥いて貰えばいいや、と思いながらパクリと口に入れる。
「俺もそう思うよ。いつか貴方は死にます、って当たり前のことを言われただけだし。」
「それならどうして仕事を辞めたの?」
彼の決断を責めるつもりは毛頭ない。もともと彼が何かを決めるときは必ず、芯の通った考えがあり、わたしはそれにいつも感心するのだ。
「リンゴを剥いていたいんだ。」
口の中で広がるリンゴの甘酸っぱい果汁を飲み込むと、身体の中が透明のキラキラした液体で満たされるようで心地良い。見た目は真赤でつやつやと輝き、一目でその美味しさを全面にアピールにているにも関わらず、剥いてみると中は白くて透明な液体で満たされているなんて、つくづく不思議な食べ物だな、と思う。最初にリンゴを食べた人はきっと、その外見と内面の違いに驚いたことだろう、と、到底追いつけもしない過去の一瞬に思いを馳せる。
「リンゴを剥いていたいって?」
もう私は彼が発するどんな言葉にも、ある程度の冷静さを持って対応できる自信があった。こんな世界の状況において、彼の言葉は私が何を持ってしても信じるべき、たった一つの指標になることはもう明白だった。
「人はいつか死ぬって、当たり前すぎることを、他人に言われて気が付いた。俺は残りの時間、君をこんな狭い空間で一人にしておくことほど、無駄な過ごし方はないと思うんだ。」
「でも、私はもう…」
「治らないって言うんだろ。」
彼が膝の上で静かにこぶしを握り締めるのを見た。
彼の瞳には今、何が映っているのだろうか。伏せられたその瞳の奥に、うつむいた視線の先に見えているのは、あの赤いうさぎだろうか。
「治らないからって、ただここでひとり、終わりの時を待つなんて、そんなの俺は絶対に嫌だ。」
「私はそれでもいいと思って生きてきたのよ。」
「俺が、そうさせたくない。」
きっぱりと言い放った彼の言葉に、私は今までにない大きな決意と誓いを感じた。
「俺はこれから毎日ここに来る。朝起きてすぐここに来て、君にうさぎのリンゴを剥いて、君が眠るまでここにいる。そうして残りの日々を過ごしたいんだ。そうするって、もう決めたんだ。」
西日はいつの間にか窓の下に消え去り、深まる闇の気配にこの部屋ごと飲み込まれそうな予感がした。いつか地球が消えるとき、こうやって闇に飲み込まれて消えるのだろうか。不安で途方もない気持ちを抱えそうになるが、その時ふと見つめた彼の瞳のその奥に、確かに私は一筋の光を見た。
いつかこの世界が消え去って、宇宙の闇に放り出されても、彼の瞳に宿る光が、きっと私を照らしてくれるに違いない。
そう思うことが出来て、私はようやく、いつ訪れるかも分からないこの世の終わりにも、私の命の終わりにも、立ち向かっていける気がした。
「どっちが先かなあ。」
先日、明確な命の期限を告げられたあの無機質な瞬間を思い出して、私は言った。
「あと半年以内に地球が消えたら、一緒に終われるね。
ずっとここにいてくれるなら、きっと消える時も一緒でしょう?」
「ああ。もちろんそのつもりだ。」
「あと何回うさぎリンゴが食べられるのか、賭けをしようか。」
「いいけど、俺が勝ったら君はどうする?」
「そうねえ、どうしようか。」
真剣に悩み始めた私を見てはは、と笑った彼の笑顔が、さっきまでこの部屋を照らしていたあの西日のように見えた。
明日から毎日、あの赤いうさぎが食べられるなんてまるで夢のようだ。
彼と過ごす残りの時間を思い浮かべて、私は今まで生きてきた人生の中で一番幸せな気持ちになった。そして、窓の外にひっそりと輝き始めた一番星に、願わくば穏やかな終焉を、と目を瞑り静かに祈った。