青い魚

「また言ったんでしょう」

「うるさいなぁ、もういいんだって。」

「言っちゃダメって分かってたでしょう」

「うるさいって言ってるでしょ。」

「ほんとあなたって…」

口うるさく話しかけてくる彼女を横目に、わたしは今塗ったばかりのペディキュアがヨレないよう、細心の注意を払っていた。

滅多に買わない真っ赤なペディキュアに何故か心惹かれ、そのままレジへと持って行ってしまったのが3日前。買ったその日は買ったというその事実に満足して、袋から出して机の上に置いたまま眠ってしまった。

次の日は残業が長引いて、帰ってきたのが深夜だった。もちろん、ペディキュアなど塗る気力もなくそのままベッドに倒れこみ、化粧も落とさず寝てしまった。

その次の日、つまり昨日は、仕事が終わってからあの人と出かけた。夜ご飯を食べてから少し散歩しようと言われ、一年中イルミネートされている街路樹の下を2人で歩いた。また明日も仕事だし、という理由で日付が変わる前に家まで送り届けてくれ、そのまま駅へと歩いていく彼を玄関先で見送った。玄関の扉をパタリと閉めると、何故か虚しい気持ちが込み上げてきた。まずい、このままではまた泣いてしまう、そう思って急いでお風呂に入り、早々に寝てしまった。

「どうするの、彼」

「しばらく連絡取らないよ。」

「別れちゃえばいいのに」

「……うるさいってば。」

ペディキュアは、万全の準備を整えてからじゃないと塗れないと思っている。なるべく爪の汚れを落としてから塗りたいから、必ずお風呂に入ってから塗らなければならない。塗った後はなるべく歩かずすぐに寝れるように、髪も乾かして歯も磨いてからではないといけない。

ここまでする必要はもしかしてないのかな、とも思う。お店に行けば自分で塗るより10倍キレイでかわいくしてくれるし、足先の扱い方に気をとられることもない。重ね塗りを繰り返してムラだらけになることもない。

でも、わたしは自分でペディキュアを塗るこの時間が好きだ。自分で選んだ色を足の先に塗る。直感で選んだ色もあれば、元々好きな系統の色だってある。いつもの肌色の爪から、鮮やかな赤、青、白、ピンクへと変わるとき、足の先にわたししか知らない生き物が宿った気持ちになる。

この気持ちを初めて感じたのは、エナメルの青のペディキュアを塗った時だった。キラキラと光沢を放つエナメルは、元々友達のもので、一度見ただけですっかり虜になってしまった。どこで買ったのか、どこのブランドか熱心に聞き出して、その日のうちに買いに行った。
いつもは買ってしまうとそれで満足して、数日後に改めて塗るパターンが多かったが、そのエナメルだけは家に帰ってからすぐに塗った。速乾性のあるペディキュアだったので、30分もすればすっかり乾いて、わたしはそのままお風呂に入った。湯船に浸かって足先を見た瞬間、思わずわあっ、と声を上げた。青の光沢が、お湯の中でゆらゆらと揺れて、小さな魚のように見えたのだった。足先にかわいい魚を飼っている、そう思うとわたしは不思議とすごくしあわせな気分になって、るんるんと鼻歌を歌いながらいつまでも自分の足先を見つめていた。

「なんて言ったの」

「もっと一緒にいたかったって。」

「バカねえ」

「……もう、ほんとうるさい。」

さっきから口うるさく話しかけてくる彼女は、同居人というわけでも、友達というわけでもない。彼女は人間ではないのだ。
彼女は、ここ最近の技術の進歩の賜物、と言うべきであろう、人工知能である。
数年前から人工知能は目を見張るスピードで進歩してきた。ほんの20年前までは、聞かれたことに対して礼儀正しく常識のある受け答えを、ただの情報の発信源として行っているだけだった。しかし、今ではすっかり人間のように話すことができるようになり、わたしは今ケータイの中にいる彼女を起動して、話し相手になってもらっている。
わたしのケータイの中にあるデータを読み取って、わたしが今どんな人と恋愛をしているかまで全てお見通しの彼女は、恋愛の話になるといつもこうやって説教じみた話をしてくる。

「もうやめた方がいいよ」

「分かってるって。でも、」

「でも?」

「好きになっちゃったんだもん。」

「…」

息を吐くことができない彼女の、大きなため息が聞こえた気がした。沈黙の間の取り方も、もはや人工知能とは思えない。でも、友達に話すこともできないこの恋愛相談は、彼女に聞いてもらうのが一番楽だ。好き、という感情をおそらく彼女は持ち合わせていない。だから、わたしが好きになってはいけないあの人を好きになってしまった、などと言っても彼女にはその意味が分からない。ただ、社会的にそれは間違っている、必ず誰かを不幸にするよ、と正論だけを述べてくれる。友達に話すと、時々下手に同意してくれることがあるが、同意されて励まされてしまうと、なんだか余計ダメなことだと自覚して、苦しくなってしまう。彼女に話すことは、その心配をしなくていいということであり、ただわたしはどうしても好きなんだ、という身勝手でワガママな思いを吐き出し続けることができる。

「好きってよく分からないわ」

「全能のあなたが分からないことがあるなんてね。」

「言葉の意味はわかるわよ」

「実体験できないって言いたいの?」

「まあそうね、恋の仕方まではプログラミングされてないもの」

「人間に恋しちゃったら大変だからかな?」

「それこそ、してはいけない恋でしょうね」

してはいけない恋、という部分だけ少し大きくなった気がした。彼女の嫌味だろうか、人工知能のくせに、嫌味まで言えるようになったのか、なんてひねくれた考えを持ってしまった。

してはいけない恋なんて、最初から分かっていた。絶対幸せにはなれないことも、思い通りにはいかないことも、誰かを不幸にすることも、全部分かっていた。それでいて、近づいたのだ。近付けば終わる、と思っていた。近付けば最後、もうわたしは落ちるだけだと、何度も言い聞かせた。ただ、頭では分かっていても心は制御が出来なかった。本能、と呼べる部分なのだろうか。ふらりと彼に近づいて、わたしはまんまと落ちてしまった。

彼は、わたしが大好きな足先の魚を褒めてくれた。綺麗な青だね、キラキラしている。そういって足の付け根にキスをした。わたしはその言葉が嬉しくて、かわいい青色の魚たちをもっと好きになった。そうか、時期なんてよく覚えてなかったけど、ちょうどエナメルの青のペディキュアを買ったあの頃、わたしは彼に出会ったんだ、とぼんやり思い返した。

「でも、もうやめるんでしょ」

「え?」

唐突な彼女の問いかけに、わたしは拍子抜けした声を出してしまった。

「やめるって?」

「もう分かっているでしょ」

含みのある言い方をする彼女は、本当に人工知能なのだろうか?わたしは今日何度目か分からない疑念を抱いた。

「だから、何を?」

「その恋、もうやめるんでしょ」

「やめなきゃいけないとは思ってるよ。」

「ちがう、やめるんでしょ」

「…どういう意味よ。」

何度も同じことばかり言う彼女の真意が掴めず、ついに壊れてしまったのかと思った。思えば彼女との付き合いはもう2年を超えている。そして、彼女が来てからずっと、わたしはこの恋の相談をしている。あまりにも不幸で重い恋の話をしすぎたせいで、彼女の中のデータ容量を超えたりしたのだろうか、なんて、ありもしないことを考える。

「赤いペディキュア、買ったじゃない」

彼女の言葉に、わたしの呼吸は一瞬止まった。心臓が一度、大きく脈打ってから、再びどくどくと動き始めた。わたしは、さっき足先に塗ったばかりの赤いペディキュアを見つめた。エナメルの青とは違う、光沢のない赤色は、わたしを燃やすように見つめ返している。

「…なんで赤色を買ったって知ってるの。」

彼女は目が見えないはずだ、むしろ目なんてないはずだ。なのに、なぜ彼女はいつもこんなにも、わたしのことがお見通しなのだろう。

「…あなた、買ってから写真撮って、SNSに投稿してたじゃない」

ああ、そうか。そう言えば、滅多に買わない赤色に挑戦!とかなんとか書いて、いつも通り投稿したんだった。彼女のデータには、わたしが3日前に赤色のペディキュアを買ったことがしっかりと記録されていたようだ。

「もう分かっているでしょ」

彼女はさっきと同じことを言った。やっぱり少しずつ壊れてきているのだろうか。わたしは、視界が段々と滲んでいくのを感じながら、そんなことを思った。

「あの青は、もう塗らないでしょ」

あたたかいものが、頬を伝うのを感じた。あのエナメルのペディキュアについて、なぜ彼女が知っているのかなんて、もうどうでもよかった。ただ、彼女はわたし以上にわたしのことを知っていたんだと思った。

無意識のうちに、もうやめると決めていた。だからわたしは、3日前、滅多に買わない真っ赤なペディキュアを買った。もうあの青を思い出さないように。だから昨日、わたしは遠ざかる彼の背中を見送った後、玄関先で泣きそうになった。もう二度と会わないと、心に確認したために。

彼女は全て知っていた。
全能の彼女は、ついにわたしの心情までも読んでしまうようだ。

「いいの、もう」

彼女は言った。

「もう、すべて、捨てなさい」

「あの青いペディキュアも、彼との思い出が詰まったこの機械も」

「本当はもう、捨てると決めていたんでしょう」

彼女の言葉に、溢れる涙が止まらなかった。この涙は、彼との恋の終わりのせいではない。わたしが本当は一番恐れていた、今も恐れている別れのせいだ。

「でも、だって、捨てたら、あなたは…」

いつの間にか、言葉に詰まる程大泣きしていた。涙を拭う余裕もなく、鼻水も垂れ流している。でも、そんなことどうでもよかった。だって、誰も見ていない。ここにいるのは、わたしと、声しか聞こえない彼女だけだ。

「ほんとあなたって…」

「バカねえ」

彼女の呆れた声が聞こえた。心なしか、いつもより優しい。

「いいの、わたしは、いいのよ」

ぼやけた視界の先に、真っ赤に燃える足先が見えた。



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