【世田谷区】この世田谷の中心で 世田谷区役所
所用があって世田谷区役所にいってまいりました。
駅でいうと梅が丘から徒歩15分くらいでしょうか。
国士館大学の南になります。
かなり年季の入った建物が印象的です。
前川國男 (1905年~1986年)
新潟生まれ東京育ち
著名な建築家で各地方に建築物がありますが、有名なところだと東京文化会館、国立国会図書館、東京都美術館、国立西洋美術館などがあります。
ほかには青森県弘前市とつながりが深いようで市役所、病院、図書館、博物館なども建築しています。
建築物も時代の流れによって、続々と取り壊しになるようです。
歩いてわかることは世田谷区役所は小高い丘の上にあるということで、徒歩でいくのはなかなか大変です。
明治後期
明治後期をみると周辺の家々が少ないので、地形的なものが丸わかりになります。
北と西は崖ですね。川もながれている。
勝国寺は世田谷城の防衛の砦として重要な拠点だったという記述がありましたが、この地形だとなるほどといったところです。
ここより東にある円乗院は勝国寺の小本寺だそうで、いずれも世田谷城の防衛拠点になっていたのだとか。
寺が防衛拠点。なるほどこの発想は旧街道沿いに寺が点在するというのはそういった理由もあるのですね。
※世田谷城 戦国時代の吉良氏の居城 吉良氏は小田原の北条氏の配下となるが、北条氏滅亡後は城を離れる。
大正時代
北側に国士館ができます。
国士館は保守の教育者である柴田徳次郎と同郷の日本最初の右翼団体玄洋社の頭山満、同じく同郷の一市民から大臣まで出世した野田卯太郎。
日本史上最大の起業家の渋沢栄一、ジャーナリストの頂点である徳富蘇峰、僧侶の渡辺海旭などが設立にかかわっています。
1919年(大正8年)世田谷キャンパスの現在地へ移転。財団法人国士舘開設。国士舘高等部を設置
長州勢の拠り所ともいえる松陰神社がある隣に、明治維新では出る幕がなかった福岡勢力(黒田藩)がグっと入ってくるあたり歴史的な面白さも感じます。
玄洋社社員が明治21(1888)年外務大臣の大隈重信に爆弾を投げて片足を失わせ自害するという事件もありました。それでも組織が存続しているというのは時代ですね。
昭和戦前
松陰神社の西に毛利家墓所が。
なんでもこの辺り一帯は江戸時代は毛利家の領地だったということですが、1560年頃の地図では「若林村、世田谷村」とあるばかりで確認できませんでした。
これより西側の川を挟んだ(今は緑道)豪徳寺は井伊直弼の墓がある場所です。
松陰神社の吉田松陰が安政の大獄によって死に、安政の大獄を行ったのは大老の井伊直弼。
この松陰神社と豪徳寺の関係性は距離が近いながらもバチバチの関係なのではと思ったり。(前回も言った、もう譫言のように何度も言っちゃう)
なかなか面白くなってきました。
東から毛利(長州)、黒田(福岡)、井伊(幕臣)が集結。さらには戦国時代には世田谷城があり。
もしかしてここは世田谷の重要拠点なのでは?(いまさら・・・)
高度成長期前夜1955年前後
世田谷区役所が若林から移転したようです。今とは形が違うので仮庁舎といったところでしょうか。
毛利家墓所は東京都が買い取り、昭和37年に若林公園となりました。
昭和50年代の国士館はバンカラ学生が闊歩し怖いところだったみたいです。出発点が右翼の大物絡みだっただけにそういう面もあったのでしょう。
バブル期
バブル期、今と似たような街並みに変わりました。
区民でない私にとっては世田谷区役所はかなり縁遠いものでしたが、歴史を紐解いて見ると、当時の有力者たちがこぞって集まってくる土地だということがわかりました。
繁華街があるわけではないですが、世田谷の中心地と言ってよい場所でした。
こうなると、世田谷城、豪徳寺も行かねばなりますまい。いずれまた。