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【目黒区】大橋と駒場

先日、上目黒氷川神社に行った際に東京時層地図をみてみたところ、北側がなんとも面白そうだったので行ってまいりました。

地形的には目黒川から一気に高台となる場所で、観光地というわけでもないコンビニすらないので、なかなか行く場所ではないのかなと思います。


江戸時代

江戸時代は周辺は駒ヶ原御用屋敷という広大な敷地になっていました。

江戸末期の1867年にこの地を軍事訓練場としようとした幕府と住民との間で武力衝突が起こり、これが駒場野一揆という出来事のようです。

結局この場所は軍事訓練場となることは見送られました。一揆も抑えきれない、幕府の衰退化が著しかった現象でもありますね。そして1868年から明治時代が始まります。

今回は御用屋敷の中心地あたりにいって東京時層地図をみてみたいとおもいます。


写真が下手すぎますが左側に学校の入口があり学生が大勢がいたので配慮しました。正面の建物は警視庁第三機動隊です。左側には第三機動隊の寮となります。ある意味、東京一安全な場所といえるかもしれません。

現代の東京時層地図

東側から

目黒第一中学校
都立駒場高等学校
関東財務局大橋住宅
警視庁第三機動隊
警視庁第三方面本部
警視庁駒場寮
駒場東邦中学校高等学校
筑波大付属駒場中・高等学校

となっています。官庁っぽい集まりのように見えます。
江戸から明治の移行期で、大きな敷地の所は武家の敷地でそれを利用して官公庁施設を建てていました。

私は地方出身者の為、東京の学校についてはわからないですが、いやそもそも学校について興味もあまりなかったですが、筑波大付属駒場中・高等学校は全国でもトップの学校だそうです。
周辺学校も学力上位の学校。文教地区ともいえると思います。

筑波大付属駒場中・高等学校

南側には東邦大学医療センター大橋病院

この病院で思い出しました。

10年ほど前にトイレで老廃物を一気に放出せんとイキんだとたんにキーンという音とともに強烈な眩暈に襲われて、立ち上がれなくなり、これはもうダメだ、ここで終わりだ今までありがとうさようならと思いながら、トイレからはいずりだして救急車を呼んだことがありました。

で行ったのがこの病院。

結局なんでもなくて点滴打って帰らされたのですが、帰れない。眩暈がひどくて全然立ち上がれない歩けない。寝てても頭の位置を変えただけで強烈に眩暈がきてダメ。

奥さんに来てもらってタクシーに乗って帰宅しました。

のちのちメニエール病の疑いということだけでひと月くらいで治りましたが、三半規管は弱まったままです。見た目は変わらないからつらいのは本人ばかりで周りには伝わらないんですよね。めまいで弱っている人の気持ちはわかるようになりました。


この大橋通りをまっすぐ行くと、左側の住宅に御用屋敷跡の案内板があります。


御用屋敷跡 江戸時代この周辺は18万平方メートルの御用屋敷の敷地でした。このあたりに建っていたと推定される御用屋敷の建物は、徳川将軍がこの近くの駒場野へ鷹狩りに来た時の休憩所となり、平素は狩場の管理や準備にあたる鳥見役人がつめていました。 御用屋敷を含むこの地域はもともと、上目黒村の加藤家が開いた土地でした。寛永3年1626年に御用屋敷に当たる土地が、加藤家より伊予宇和島藩伊達家家へ献上され、同家の下屋敷となりました。そして幕府によって江戸周辺の鷹狩りの場が整えられるに従い、享保3年1718年に伊達家により下屋敷も含めて幕府へ差し出されて、御用屋敷となりました。御用屋敷には将軍家の為の「御薬園」も設置され薬用の植物が栽培されていました。 目黒区教育委員会の案内板より

なるほど!

松見坂下に遠江橋というのがかつてあり、それが宇和島藩の伊達遠江守由来だということでしたが、なぜ周辺御用屋敷しかないのに、伊達なのだと思っていたんですね。もともと下屋敷だったからか。

将軍家の為の御薬園もあったなんて、小石川植物園みたいですね。

目切坂の目黒富士跡の案内板もそうですが、目黒区は史跡に対してしっかりしている印象があります。

明治初期 桑茶政策

御用屋敷跡のお話を踏まえて明治9~19年(1876~1886)の東京時層地図をみると

明治9~19年の東京時層地図

現在地の北側、案内板があったあたりですが、まさに御用屋敷があっただろう位置がわかります。

そのほかは茶畑、松林、畑、雑木林が広がります。

茶畑は明治以降に就労者を増やす為として、国策として武家の敷地跡に多くつくられたそうです。

渋谷区でいうと今の松濤あたりが明治以降に鍋島家の屋敷となって、周辺でも茶畑が盛んにつくられたのだとか。

で、明治になってからこの国策、桑茶政策を推し進めたのは鍋島藩出身初代東京府知事の大木喬任。

そういえばお墓にも行ったことがありました。

まず大木家と書かれた墓があり、横に奥さんとご本人のお墓が。なんとなく奥さんのお墓が立派なような気がしたのはご本人の人柄を表しているかもしれません。思い出した、大木家の奥さんは平民主義で大木家の長女は栃木県鹿沼の半農半神の神社に嫁入りしているんだった。その後大木家長女がどうなったのかはわかりませんが、嫁入り先の石原家は明治以降クレー射撃で有名となり、現宮司の石原敬士さんは大久保利通の子孫の麻生太郎さんとモントリオールオリンピック代表の座を争うと。


岩崎徂堂 著『明治大臣の夫人』,大学館,明36.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778815 (参照 2023-07-20)



うーむ・・・面白いなぁ繋がってきたなぁ・・・

そして明治後期へ 

軍が入り込んでくる 明治39~42年(1906~1909)

左から

騎兵実施学校
近衛輜重(しちょう)兵営
騎兵営

目黒区のホームページに詳しくありました

明治の初めには、旧大名屋敷が兵営に充てられていたが、明治6年に徴兵令が敷かれて以後、兵隊が増えたこともあって、兵営は郊外へ移転を始めた。また新しい兵営も続々と建てられた。その適地として目をつけられた土地のひとつが駒場野であった。帝国陸軍用地として買収の話が持ち上がったときには、幕末の駒場野一揆のような動きは起きなかった。むしろ、招致運動さえあったという。何の補償も示されなかった幕末のときとは違い、今度は幾ばくかの土地代金が与えられたし、買い上げられた土地の用途は、増強に増強を続ける帝国陸軍の用地である。軍事施設が出来ることによる地元発展への期待も、人びとの中にあったのかもしれない。
最初に現れた軍事施設は、明治24年に移転してきた騎兵第1大隊(のち連隊)の兵営であった。翌年にはその東に、新しく創設された近衛輜重(しちょう)兵大隊第1中隊(のち大隊)が兵営を築いた。輜重(しちょう)兵とは、弾薬や食糧の輸送を任務とする兵隊である。これらの兵営の北、駒場野の一角に駒場練兵場が置かれた。
明治30年、駒場野の南に置かれた駒沢練兵場は、現在でいうと南北は国土地理院跡から三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校にまで及ぶ広大なものだった。その後、駒沢練兵場の西側一帯に、野砲兵第1連隊営、近衛野砲連隊営、砲兵旅団司令部、野戦重砲兵第8連隊営が続々と建てられた。駒沢練兵場で訓練を受けたのは、主にこれらの兵隊であった。

https://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/konnamachi/michi/rekishi/hokubu/komazawarenpeijou.html

南には駒沢練兵場か・・・こちらにもいかなきゃですね。

一番西側は騎兵営で、軍馬さんの慰霊塔があります。

馬神と彫られています。

お次は関東大震災前

大正5~10年 1916~1926年

東から

輜重一大隊
近衛大隊
騎兵一連隊

日中戦争にいたるまでは輜重は馬と一体だったということから、隣り合わせであるんですね。

近衛騎兵団は習志野を本拠地とすることになるからその移行期でしょうか。


戦時中の白抜き改描地図 昭和3~11年 1928~1936

軍事施設はさすがに白抜きと改描がなされています。

今気が付きましたが、現在地は目黒と世田谷の境界線だったようです。軍用地だけれど行政区が異なるというのは意外な発見。

北にある駒場東大前の駅が いちこうまえ となっているのが時代を感じます。第一高等学校。現在の東大駒場キャンパスですね。

昭和30~35年 1955~1960 東京オリンピック前

警視庁第三予備隊

これがのちに警視庁第三機動隊になるわけですね。

東京教育大農学部

1978年に閉校し、筑波大学の母体へ。だから筑波大付属の駒場中高というわけか。



昭和59年~平成2年 1984~1990年

過去地図を通してみると都道423号 通称淡島通りは江戸時代からあった道ですね。
機動隊の南にお世話になった東邦大学病院があります。
東邦大学は習志野にもあるしここにあった近衛兵団も習志野にある。
なにかつながりがあるのかなとも思えます。戦後買い取ったとかかな。

ところで、

この一帯の南側は見晴らしの良い高台になっているんですよね。
このあたりでは多数の縄文遺跡が発掘されたようです。

そうなってくると眼下の建物諸々が海に見えてきてしまいます。

この辺りで暮らして下の入江で貝を捕って、埋葬地や貝塚は上目黒氷川神社。そんな縄文の人達の暮らしぶりも見えてくるようです。
まさにここも中沢新一さんのアースダイバーの縄文の聖地。

眼下は海?

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