今年も墓碑銘の季節に~須田寛JR東海初代社長のこと
今年亡くなった方々の墓碑銘が新聞に載る季節です。JR東海の須田寛参与(93)は12月13日に逝去されました。前日、須田さんが中心となっていた名古屋の観光団体幹部と須田さんのことを話したばかりでした。
■須田さんといえば産業観光
JR東海の須田さんの逝去を知ったのは12月23日でした。同社の初代社長です。上場前から旧名古屋駅内の会議室で定例記者会見に出ていたこともあり、思い出が尽きません。
東海道新幹線など鉄道関連の実績が多く、各メディアは追悼記事で取り上げています。私は須田さんが提唱し、実績を残してきた「産業観光」のことを書くことにします。
2020年の新型コロナウイルス感染拡大直後、お話を伺いました。観光のV字回復に向けた準備を今からしておかないと、コロナ収束後では観光地の受け入れが整わないと熱心に語っていたのが印象に残っています。
■ポストコロナへ
ポストコロナを見据えて、観光への「三つの多様性」を指摘していました。①訪れる国・地域の多様性②受け入れる国内観光地の多様性③観光手法の多様性です。
須田さんらしいと感じたのは、三つ目の多様性。この中に須田さんの持論である「産業観光」が含まれていました。
産業観光とは、歴史的、文化的価値のある産業文化財(工場遺構など)や生産現場や製品を観光資源として、国内外の観光客に見てもらうことです。
東海地方はモノづくり産業が盛んな地域で、製品の変遷や発祥当時の工場の遺構など大切に残されている地域です。すでにトヨタ自動車の源流から現在までを学べる産業技術記念館(名古屋市西区)や陶磁器のノリタケ(西区)やブラザー(瑞穂区)、JR東海リニア・鉄道館(港区)など多くの施設があります。
■構想のきっかけ
須田さんに産業観光の構想がうまれたきっかけを聞いたことがあります。2005年の「愛・地球博」(愛知万博)の誘致活動で1990年代、地元の自治体や財界人が世界各地をPRに訪れています。愛知県が開催の決定権を握るパリの国際博覧会事務局(BIE)へ誘致アピールに訪れた当初、「愛知ってどこ?」といわれたそうです。中米のハイチと間違われたこともあったと聞きました。
須田さんは2014年のインタビューで、「愛知の観光資源を探したところ産業観光に行き着いた。もし、BIEが愛知を知っていたら、産業観光は生まれなかったかもしれませんね」と話していました。
産業技術記念館など点在する施設と行政が協力し合って、観光客が回遊できるようにする工夫がいると考えて、動き出していました。
■目標は広辞苑への掲載
須田さんは名古屋商工会議所の文化・観光委員会の委員長として産業観光の肝である博物館の連携に力を注いでいました。1997年から2017年まで務めています。
名商の嶋尾正会頭の「須田寛氏の訃報に接して」の追悼コメントの最後にこの一文があります。
「産業観光という言葉が広辞苑に掲載されることを一つの目標としてご尽力されていたと伺っておりました」
そうです。私も須田さんと会うごとに、この言葉を幾度も伺いました。産業観光を言葉だけでなく、広く観光需要に結びつける行動がますます必要だと感じていました。
■「教育観光」も
須田さんはもうひとつ、学校での観光教育を進めて、修学旅行と産業観光との連携、すなわち「教育観光」も見据えていました。
2020年2月に名古屋で「中部の観光を考える百人委員会」が観光と教育の連携をテーマに委員会を開催しています。
須田さんは、全国産業観光推進協議会会長の肩書きで修学旅行の現状を報告。また、日本修学旅行協会の竹内秀一理事長を招き、観光教育と修学旅行が果たす役割について講演してもらっています。コロナ禍突入の中で、先見の明がありました。
嶋尾名商会頭の12月25日の定例記者会見では、須田さんの業績に触れつつ、修学旅行生が学ぶことができ、モノづくりにも関心を持ってもらえる仕組み作りに意欲を示しました。
■りんご並木の駅に植樹
思い出は尽きません。表紙の写真は、長野県飯田市の飯田駅ホームにある飯田線全通60周年(1997年)の記念植樹です。当時、須田さんも植樹に参加しています。
いつぞや、「故郷の駅にシンボルのリンゴの木を植えていただけてうれしいです」とお礼をいうと、飯田線の全線開通までの苦難の話しを伺いました。記念樹が「枯れてしまって、今はないですがね」と教えていただいたのも須田さんからです。
ご冥福をお祈りしつつ、産業観光の歩みを止めないようにペンで応援していきます。合掌
(2024年12月29日)