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濃尾地震から130年~震災孤児救済事業の源流も

 濃尾地震から今年で130年です。
 明治24年(1891年)10月28日午前6時37分、岐阜県の根尾谷(現・本巣市)を震源とする巨大地震が発生しました。地震のエネルギーはマグニチュード8・0。世界でも最大級の内陸直下型の地震でした。
 美濃地方と愛知県尾張地方を中心に死者は7273人に上りました。田んぼや畑の広がる根尾村の水鳥(みどり)地区には、高さ6メートルに及ぶ垂直の段差が出現していました。
 阪神・淡路大震災(1995年)のM7・2、関東大震災(1923年)のM7・9と比べてもいかに未曾有の地震だったかがわかります。
 写真にある根尾谷地震断層観察館を訪ねたことがあります。濃尾地震で生まれた断層の一部分がそのまま保存され、見ることができました。実際に断層を目の当たりにして、数字で知る以上に、内陸直下型の地震の恐ろしさを肌で感じたのでした。
 同じ根尾谷にある樹齢1500年といわれる国の天然記念物「根尾谷薄墨ザクラ」の景色とは、また違った自然への畏敬の念がわいてきました。
 濃尾地震は被害の大きさの一方で、「地震研究、震災対策が大きく発展する契機にもなった」(岐阜県ホームページ)という一面もありました。各地の新聞社は震災情報を伝え、それによって被害の大きさを知った国民は、医療ボランティアとして駆け付けたり、援助物資を寄贈したりして、救援の輪を広げていたのです。
 ふと思い出したのは、2009年に岐阜市内の社会福祉法人日本児童育成園を訪ねたとき。濃尾地震の写真や資料が掲示してあったことです。正直、当時は地震と養護施設の関連をほとんど気にしていませんでした。濃尾地震130年をきっかけに調べ直してみると、児童福祉につながる児童救済事業の源流があったことがわかりました。
 明治28年に岐阜県飛騨地域に「飛騨育児院」ができていますが、「厚生労働白書」(平成23年版)にひょると、キリスト教の牧師だった五十嵐喜廣が震災孤児の救済のために始めたとあります。育児園は翌年、岐阜市に移り、明治39年に伊藤博文より「日本育児園」と命名されたと、同園の沿革にあります。これが、現在の「日本児童育成園」です。
 名古屋大学減災連携研究センターが一般市民向けに企画している「げんざいカフェ」の10月13日のテーマは、濃尾地震でした。「改めて内陸型地震への備えを考える」という企画です。
 長良川にかかる鉄橋が落ちている写真などを見ながら、断層ばかりの国土で、どう対策をしていくのか考えていました。やはり日頃からの備えに尽きます。
 そのためには、できるだけ正確なデータが必要です。講師の平井敬・同センター助教のアドバイスの中で、防災科学技術研究所が公開する「地震ハザードステーション」(JーSHIS)のことを知りました。内陸型地震など全国の地震動予測地図を250メートルのメッシュで見ることができます。今住んでいる場所がどういう地形で、揺れた場合の震度などがカラーの地図で見やすくなっています。
 濃尾地震130年の節目の日は、いろいろ新しい学びがありました。
(2021年10月28日)

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