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「焼肉日本一の街」だけではない~花満開のりんご並木の再発見を

 南信州の小京都・飯田市は人口9万6557人(3月末時点)。南アルプスと中央アルプスの山並みに囲まれ、天竜川が生み出した壮大な河岸段丘を見渡す田園都市です。
 ひと昔前は、全国トップシェアの水引細工や天竜舟下り(現在は天竜川和船下り)など山紫水明をうたわれていました。毎年8月に開催する「世界人形劇フェスタ」は、1979年の国際児童年に始まった「人形劇カーニバル飯田」が前身。今や国際的なイベントに成長しています。
 最近は、人口1万人当たりの焼肉店の数が日本一ということで、「焼肉日本一の街」として知られるようになっています。確かに市内を歩けば、いたるところに焼肉の看板があります。
 NHKのど自慢大会が2023年2月5日に飯田市から生中継された時にも、アナウンサーが焼肉の街として紹介していました。私自身、ふるさとの日本一を喜ぶとともに、「焼肉だけではないでしょう」という反発もありました。

飯田東中学校の生徒によって植えられた紅玉。70年後の今もチュウリップに囲まれながら白い花を咲かせている(飯田市のりんご並木で、2023年4月13日©aratamakimihide)

 4月13日、帰省したとき、市内中心部の「りんご並木」を歩きました。ほぼ満開のリンゴの花に感激また感激。島崎藤村の「初恋」のなかに歌われたりんごの花。久々に白い花見を堪能しました。
 りんご並木は、1947年(昭和22年)の飯田大火で、市街地の3分の2を焼失した飯田市の復興事業として実現しました。私の母校、飯田東中学校の松島八郎校長の提案が飯田市を動かし、1953年(昭和28年)に東中生徒が47本のリンゴの木を植えました。翌年発足した飯田東中学校の学友会(生徒会のこと)緑化部が手入れを続けています。私も施肥や収穫など体験しています。
 最初に植えた「紅玉」は、明治4年にアメリカから移入された品種です。昭和10年から30年代まで、「国光」と並ぶリンゴの代表でした。この木は70年を経た今も、並木の中央で白く可憐な花を咲かせています。
 「ふじ」と「つがる」を親に持つ「シナノスイート」は、長野県の「りんご三兄弟」のひとつです。紅玉と違って酸味が少なく、いまどきの人気のフルーティーな味です。この花も見事でした。
 焼肉を非難しているわけではありません。飯田市の人は、もっと足元の宝物を再発見して、「日本一のりんご並木」を誇りに思うべきです。私自身、「りんごの花見」をもっと多くの市民や観光客に呼びかけていきたいと思ったほどです。

りんご並木の草むらのなかにひっそりと置かれている岸田國士の「飯田の町に寄す」の碑


 りんご並木のいたるところに文士の碑文や彫刻があります。そのなかで、太平洋戦争で娘さんを連れて飯田に疎開していた劇作家岸田國士(きしだ・くにお)の碑文が飯田らしさを表しています。
 飯田 美しき町
 山ちかく水にのぞみ
 空あかるく
 風にほやかなる町
 飯田 静かなる町
 人みな言葉やはらかに
 物音ちまたにたゝず
 粛然として
 古城の如く丘にたつ町
 飯田 ゆかしき町
 家々みな奥深きものをつゝみ
 ひとびと礼にあつく
 軒さび甍ふり
 壁しろじろと小鳥の影をうつす町
(『飯田の町に寄す』より抜粋)
 
 岸田國士の娘とは、女優の岸田今日子さん、姉で詩人、童話作家の岸田衿子さんのことです。碑文は家族の要望で、草むらに佇むようにあります。
 いかがですか。ぜひ一度、碁盤の目の街路が続き、小京都を思わせる飯田市街地を訪ねてみてください。このたゆやかな響きを感じてほしいのです。
 そう。焼肉を食べる前に。
(2023年4月18日)
 
 
 

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