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花束みたいな恋をしたから何だって話

世の中は思ったより厳しくて、

知識や運がない人が搾取されていく。

それは社会人になってすごく思う。

最近、私のクレカから8万5千円盗まれた。

何も変わらずいつも通り生活していても、

取られる時はあっさり取られるものである。

それも日常というものなのかもしれない。

(金取られた件については後日…)

ただ、日常を忘れることも必要である。

その手段が趣味というものであると思う。

その私の趣味の中で異質なものがある。

それが、『映画』である。

何故、映画が異質だと感じるかというと、

『人生観、価値観に影響する』

という点があるからだと思う。

初めに、私は映画を見るのが好きなのだが、

嫌いである。

この矛盾は何故生まれるかというと、

『自分の経験、価値観等が裏切られるから』

であると思う。

誰しも自分の意見や、これまでの人生を

他人から否定されるとモヤモヤするものである。

すなわち、自分の価値観と違う作品を見た時は、

『あぁ、こういう考えもあるのか、けど何で、あの時あの人はこんな行動をとったんだ…?俺ならこうするのに…俺の考えが違うのか、他の人はどんな意見なんだろ…』

といったように自分の中の自分が崩れる。

けど、この崩れるという感覚は、心地悪くも自分の成長に繋がる。

さらに映画は『自分で決めた題材で好きなタイミングでこの世界観に入り込むことが出来る』ことも大きなポイントであり、

これが好きだけど嫌いという矛盾を生む1番の理由である。

ニンゲンというのは不思議なもので、

他人から言われると腹立つものが、

自分から何かを得にいこうとすると、

『いい経験になった』と思うものである。

『他人から無理やり諭される事なく、自分のペースで価値観の蓄積ができる。』

これが出来るから映画を見続けていける。

さて、

そして最近、私が見た『花束みたいな恋をした』から一つ話をしたい。

見終えて2週間程経った現在の感想が「あ〜エモかったな〜」である。

えっ、薄っ、、、

映画好きじゃないのかよ、、、

と思われたかもしれないが、

誰しも映画を見終えて時間が経った後の感想は、意外に洗練(簡潔化)されているものでないだろうか?

見終えた後は確かに、色々な感傷に浸って『あれはこうだ、どうだ泣いた笑った、面白い、つまらない』どうのこうの感想は誰でも出るものである。

では時間が経った後ではどうだろうか。

花束見た感想はどうだっただろうか。

『だって菅田将暉と有村架純じゃなかったら誰も見ないでしょ…』

内容は現実的であり得る話だし、突飛なエピソードでもない。何なら私は「なるほど、こうやってすれ違いは生まれるのか〜フムフム」くらいの教習所で見せられる事故の事例を見る感じで見ていた。

交際の経験がある人は目を閉じても浮かぶであろう光景が、その頃の日常が、ありのままで花束では描かれていた。

だから見終えて時間が経った感想は、

「あぁ、こんな時もあったな、私は今は社会人であの時は楽しかったなぁ」くらいの懐メロを聴いた時のそれと似ていた。

しかし、前で話している通り、見たことが自分の価値観のマイナスになることはない。

実際、自分の現状に釘を刺された部分もあったのだから。

他にも面白い映画はたくさんある。

じゃあ、映画はどんな人にオススメなのか。

私の勝手な解釈だが、オラオラ系の人は映画は好まないと思う。何故かというと、その人達は自分の考えを曲げず、今を楽しんでいるから。

私は流れ流されの人生を歩んでる分、人の考えにも、映画の価値観にも影響されるようなニンゲンである。

これがいいのか悪いのかは分からない。

けど、オラオラ系の人も私もいつの間にかクレカから金を盗まれるかも知れないし、嬉しい時は嬉しくて、泣く時は泣く。

あなたと仲良くなりたい日もあれば、

誰とも話たくない日もある。

エンドロールがうざったく思うような1日は

日記に書く必要は無いのか?

映画が終わって、空になった紙のポップコーンはカサカサと音を立てて種だけが残ってた。

映画を見た後には花束みたいな帰り道はない。

私、が思うには。


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