コナン・ドイル〜作家はあくまで1つの顔〜
今日は、シャーロック・ホームズの生みの親
アーサー・コナン・ドイルについて書こうと思います。
ホームズが好きすぎて、今更ながら作者についてもっと知りたいと思ったので色々調べてみました。笑
推理小説家のイメージが強かったですが(というかそれしかイメージはありませんでした)、ドイルはいろんな顔を持つ人でした。
基本情報
■正式名:サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル
■1859年 スコットランドの生まれ
■医師、作家、政治活動家として活動
※記事内、年表の横にある(歳)は当時のドイルの年齢を示しています。
ドイルの幼少期
父チャールズと母メアリーの長男として誕生したドイル。
チャールズは、測量技師として働いていましたが、アルコール依存症により仕事を失ったため、幼少期のドイルは貧しい生活をおくります。
メアリーは、中世イングランド王国の王朝につながりのある由緒正しき家系だったことから、その名に恥じぬよう常に紳士的であるようにドイルを教育しました。
メアリーは、ドイルに毎日絵本を読んで聞かせ「騎士のように強くなるように」と騎士道精神を叩き込み、ドイルは心の強い愛国主義者へと成長しました。
母の教育が、ドイルの人格形成に大きく影響したのですね。
そして、多くの物語を聞いて育ったドイルは、友人たちにも自分で物語を話して聞かせます。
自分の物語でみんながドキドキする感覚に幸福を覚え、このころから作家としての才能があったことがわかります。
医者としてのドイルとホームズの誕生
小さい頃から作家としての才能を感じさせたドイルですが、母の後押しにより、医者を志ざします。
経済的に父は頼りにならないため、裕福な叔父らの援助を受け、当時イギリスで最高峰のエディンバラ大学医学部に進学しました。
在学中は、学費を稼ぐために小説を描き始めます。
しかし、小説だけでお金を稼ぐことは難しく、ドイルは友人の紹介で北極海での捕鯨船のバイトを始めます。
危険が伴う捕鯨船のバイトを通してドイルは、ドイルはこのように言っています。
「僕は北緯80度で大人になった」
危険を顧みず好奇心を満たし人生を楽しむ、そんな冒険心を開花させました。
大学卒業後は、ポーツマスで診療所を開きます。
しかし、なかなか患者がが来ず時間を持て余したドイルは、収入を得るために短編小説を執筆します。
当時ドイルは、それまでの推理小説に不満を持っていました。
当時の推理小説は、事件解決のきめてが運任せだったりたまたま何かのきっかけがあり解決することが多かったそうです。
ドイルは、探偵が科学的根拠をもって自力で事件を解決する小説を書こうと決めました。
そして1887年(28歳)シャーロック・ホームズシリーズ第一弾「緋色の研究」を発表し、一躍有名になります。
ちなみに、ホームズには実在するモデルがいます。それが、大学時代に出会った、ジョゼフ・ヘル教授です。
彼は、患者を診察する際に相手の服装や容姿を観察し、病状だけでなく職業や現在の生活状態まで言い当てるような人物でした。
のちに書いた自伝においても、次のように語っています。
私は旧師ジョウ・ベルのことを思い浮かべ、あのわしのような顔、あの不思議なやりかた、こまかいことを知るあの捕らえどころのない方法を思いだしてみた。もしあの人が探偵だったら、魅惑的だのに組織的でないこの仕事を、精密科学の領域にまで持ってきそう。
ドイルは、この「もし」を物語の中で見事に実現したのですね。
そして、ドイルはその後もホームズシリーズを発表し、作家としての人気を重ねていきます。
ホームズを憎んだドイル
ホームズシリーズを通して大人気作家となったドイルですが、ホームズは収入を得るための手段でしかなく、本当に書きたいものは別にありました。
それは歴史小説です。
しかし、歴史小説としてはなかなか評価されませんでした。
本当に書きたいものは認められず、しかし世間の止まらないホームズを求める声。
社会現象のような「ホームズ人気」による重圧や、本当に力を注いだ作品が評価されないジレンマにより、ドイルは次第にホームズを恨むようになります。
そしてついに、1893年(34歳)『最後の事件』の中でホームズはライバルのモリアーティ教授との対決の中で滝に落ちて命を落としてしまいます。
大人気シリーズの終了に多くのファンが失望し、出版社には大量の抗議文が届いたそうです。
当時のことを、ドイルはこのように振り返っています。
「わたしが彼を殺さなければ、
わたしがホームズに殺されていただろう」
ドイルは、これほどまでの葛藤を抱えていたのですね。
騎士、愛国者としてのドイルとホームズの復活
小説家として成功しながらも、1899年にボーア戦争が勃発すると、ドイルは40歳ながらも隊員として参加を志願します。
結果は不合格でしたが、それでも母国の愛国心から民間の医療奉仕団として参加しました。
帰国後、ドイルは国会議員選挙に出馬します。
結果は落選となりますが、ドイルは40代でのあらたな挑戦を成し遂げたのです。
ボーア戦争でのイギリス軍の残虐行為は世界各国から非難をあびますが、ドイルはイギリス軍の汚名挽回するための著書を発表し、イギリスの正当性を世界に主張しました。
この活動が評価され、1902年(43際)に国王からナイトの爵位を授与され「サー」の称号を名乗ることができるようになります。
また、ドイルは、第一次世界大戦でも戦場で士気をあげるような演説など、戦争に対して常に前向きな姿勢を示していました。
母に叩き込まれた強い愛国心と、騎士道精神はこういったドイルの行動に現れました。
そして、戦争や選挙出馬などいくつもの挑戦を経たのち、経済的な安定が必要になったドイルは、1911年(52歳)に再びホームズを復活する決意をします。
『シャーロックホームズの生還』にて、ホームズは日本武術を使って生き延びたという設定に変更され、ホームズは復活したのです。
心霊活動家としてのドイル
執筆活動に再び集中するドイルですが、第一次世界大戦(1914年 55歳)で家族をなくしたショックにより、晩年は心霊主義の活動に取り組みます。
心霊主義
肉体が消滅しても霊魂(死者の魂)は存在し続けるという思想
ドイルは、死後の世界について公演活動=死を恐れる人、大切な人を泣くして悲しむ人にこころの平穏を与える活動することに尽力したのです。
最後に
多彩な面を持ち、そのすべてで懸命に生きたドイルは、1930年 家族に看取られながら71歳でその生涯に幕を閉じます。
ドイルの墓標には、次のように刻まれています。
鋼鉄のごとく真実で、刃のごとくまっすぐなアーサー・コナン・ドイル。騎士であり、愛国者であり、医者であり、そして文学者であった。
推理小説家としてのイメージから離れるような、大変エネルギッシュで行動的な人物でした。
ホームズを生み出してくれたコナン・ドイル。
作者を深く知ることで、前よりもっと作品に愛着がわきます。
作り手を知るって、とっても素敵ですね。