僕の中にあった孤独感【創価学会3世のブログ#5】
この世界に僕しかいなかったとしたら、僕は孤独を感じるのだろうか。
そもそも孤独という概念がないのだろうか。
独りがゆえの、美しさや繊細さ、もしくは虚しさや寂しさを感じることすらないのだろうか。
「孤独」という言葉を国語辞典で紐解けば、「身寄りなどがいなくて、ひとりであること」また「行為・志などを同じくする人や精神的つながりのある人がいなくて、ひとりであること」とある。
かつては「孤独」というと虚しいイメージがあったが、最近では「孤独の〇〇」と楽観的に独りを楽しむことに焦点をあてた本も人気がある。
僕は幼い頃から、周囲に心を開くタイプではなかった。
「人の輪の中」にいても、素の自分をさらけ出すのは限られた人間だけ。
僕は心のどこかで孤独を感じていた。つまり、孤独は「他者と自分の間」にあった。団体行動が苦手な僕にとっては、独りは楽だ。気を使う必要もなければ、自分を演じる必要もない。
とは言っても、かつての僕は「干渉される」のは嫌だけど、「常に独り」も嫌だった。振り返ると、自分でもめんどくさい性格だったなと思う。
人生100年時代と言われる今、一時期的な独りは耐えられても、何十年も独りで生きた心地はするのだろうか。
アメリカの牧師・ギレルモ・マルドナードがこんな言葉を残している。
「Loneliness is not lack of company, loneliness is lack of purpose」
(孤独は仲間の欠如ではなく、目的の欠如である)
かつての僕にピッタリ当てはまる言葉だった。
夢や目標もなく、毎日をなんとなく過ごす。初めは良くても、次第に飽きてくる。やがては社会と孤立し、自暴自棄になる。そして、周囲や社会に対して、恨めしい感情が出てくる。自分が何もしていないことを棚にあげ、自分が不幸な理由を他に求める。愚かだったなとつくづく思う。確固たる自分が築かれていない中での孤独は、憎しみを生んだ。
そんな中で仏法に巡り合えたのは、本当によかったと思う。
僕の中で、生きる目的が見つかり、志を同じくする仲間が全国・全世界にいる。何より、家族や友人、縁してきた人のことを祈ることは、孤独とは無縁の世界だ。
世の中には数多くの宗教がある。だから、「創価学会でしか幸福になれない」とは思わない。ただ、「創価学会なら幸福になれる」とは心の底から思う。人間の温かみを教えてくれ、心の美しさを知った。
生まれたと同時に、「最期」が決定づけられている僕たちに、ではその一生で何に命を使うか。そして、どう使うかを教えてくれた。
宗教のために、人間が存在するのではない。人間のために、宗教が存在する。創価学会に孤独を感じている人がいないのかと言われれば、現実はいると思う。悩んでいる人もいると思う。僕は、そんな人のそばにいたいと思うし、1人でも孤独に悩む人のために汗をかきたい。
僕はもう、孤独ではない。