饒舌に空を飛ぶのも「悪くない」 『クロスアンジュ』と露悪の倫理
2014-5年に放映され、決して覇権を取ったとは言えないながらも、マンガ家の種村有菜を始めとする一部の視聴者に熱狂的な支持を受けたカルト美少女ロボットアニメ、『クロスアンジュ』。
今作のOP「禁断のレジスタンス」は、主人公・アンジュを演じた水樹奈々による作詞である。今年3月に発売されたBD-BOXのブックレットによれば、彼女はこの歌詞にアンジュというキャラクターを象徴させたという。
私はわりと生真面目なタイプなので(笑)、斜に構えたような表現や、かっこつけた言葉はあまり使ってこなかったのですが、アンジュというキャラクターに触れたとき、ちょっとパンクな部分を感じて……。(中略)例えば一番の最後に「饒舌に空を舞うのも悪くない」というフレーズがあるのですが、これまでの私なら「悪くない」という言葉は多分使わなかったと思います。「いい」ではなく、「悪くない」というのはちょっとひねた表現ですよね。
この記述を読んで私は「なるほど!」と思った。「悪くない」という言葉遣いに象徴される価値観こそ、まさしくアンジュという主人公、あるいはクロスアンジュという作品の核にあるように思えたのだ。良いものを良いと直接言葉にせず、いったん露悪を経由した上で、最後に良さに帰っていく。このひねくれこそ、クロスアンジュの美学であり倫理である。
「死にたくない、お前が死ね!」
『クロスアンジュ』の舞台は、「マナ」と呼ばれる高度情報技術(我々の世界で言う魔法に近い)によって、戦争や貧困から解放された世界。唯一の問題は、生まれつきマナを使えない女たち、「ノーマ」の存在だった。ノーマは反社会的で野蛮で暴力的な存在であるというのがこの社会の常識であり、発見次第「アルゼナル」という収容所に移送される。そこで「パラメイル」と呼ばれるロボットに乗り、異世界からの怪物「ドラゴン」を迎撃することだけが、ノーマに認められた生き方である。
『クロスアンジュ』全26話のストーリーを思い切り要約すれば、ノーマとして差別された女たちが団結し、この歪んだ社会を作り出した男性支配者と戦う話である。シスターフッドやフェミニズムといったキーワードとも相性がいい。美少女エロ深夜アニメに見せかけて、現代的価値観を2014年に提示していた先駆的作品……というように語ることも十分可能だろう。放映直後に近い観点からのレビューも出ていた(柴田英里「「エロ満載深夜アニメ」は誤解である――男の征服欲を否定する、女たちによる革命の物語『クロスアンジュ』」)。
それはそれで正しいのだが、そういうロンダリングというか、「きれいなクロスアンジュ」的切り口からは例の「悪くない」がこぼれ落ちかねないように、私には思われる。その事情を説明するためにまず、1-3話におけるアンジュの成長を追い直してみたい。
主人公・アンジュはもともと、ミスルギ皇国のお姫様として何不自由ない生活を送ってきた。彼女の夢は、この世界から異分子であるノーマを根絶すること。だがある日、彼女自身からも隠されていた事実、アンジュ自身がノーマであるということが、兄ジュリオの手で暴露され、アルゼナルに移送される。(ここまでがだいたい第1話)。
↑第1話のきれいなアンジュ
しかしアンジュは現実を受け入れることができない。周囲のノーマに対しても、自分はお前たちのような人間未満のクズとは違う、という態度を崩そうとしない。同じく新人パイロットであるココという少女に、配給分のプリンを分けてもらっても、ノーマの食事など食べていられないとばかりにゴミ箱に放ってしまう。ついにはドラゴンとの戦闘中、アンジュの命令違反のとばっちりを喰らって、ココを含む3人が死んでしまう大惨事を引き起こす。(ここまでが第2話)。
↑音速で死ぬココさん
ここからアンジュがいかに成長していくか。過去の自分を反省し、ノーマ達と友情を築いていく、というのが普通の展開だろう。最終的には確かにそうなる。しかしあくまでこの直後、第3話で何が起こるかを見るならば、事態は逆ですらある。
仲間を死なせたアンジュに、司令官のジルが怒鳴りつける。「この世界は不平等で理不尽だ。だから、殺すか死ぬか、それしかない。死んだ仲間の分も、ドラゴンを殺せ!それができないなら、死ね!」アンジュは自死を選び、パラメイルに乗って、無抵抗でドラゴンの前に出ていこうとする。しかし土壇場、彼女の生存本能が覚醒し、無我夢中でドラゴンを撃破してしまう。そこで発せられるのが、ファンによって本作のスローガンのように扱われ、種村有菜がクロアン同人誌のタイトルに採用した次の一言だ。
「死にたくない……」「お前が死ね!」
吹っ切れたアンジュは自分が死なせた3人の墓前で、自分はお前たちのように簡単に死んだりしない、何があっても生き抜いてやる、と決意する。
ここで描かれているのは、ノーマへの偏見を反省し、周囲との絆の大事さを知る「成長」ではない。暴力的で反社会的で野蛮なノーマとしての自分を受け入れ、他人に払わせた犠牲を気にも止めない、という「成長」である。この露悪的なまでのエゴイズムをいったん経由するからこそ、第3話のED、アンジュがゴミ箱からココのプリンを拾って食べるシーンが感動的になるのだ。
ヒルダとの絆
もう一つ、この「エゴイズムを前提とした絆」がよく現れているのが、第8話で描かれる、序盤のライバル・ヒルダとの和解シーンだ。外で妹のシルヴィアがピンチに陥っているという情報を手に入れたアンジュは、アルゼナルからの脱走を企てる。たまたまそのとき、生き別れた母親への思いを捨てきれないヒルダもまた、脱走計画を実行していた。
二人は協力して輸送機を奪うが、ヒルダを信用できないアンジュは土壇場で裏切り、彼女を置き去りに飛び去ろうとする。ヒルダは輸送機に飛びつき、自分の過去を絶叫する。母親にもう一度会うために全てを捧げた、好色な上官の愛人になり、好きでもない友人に媚も打ってきた。アンジュはそれを聞いて、自分で自分が不思議といった顔で、ヒルダの腕を取る。
↑なんだってやってきた!
ここでアンジュがヒルダに見せる共感は、妹への愛と母への愛、単に家族への思いがダブったというだけではない。目的のためなら愛も友情も糞食らえ、なりふり構わない「ノーマらしい」生き方に、「お前が死ね!」と叫んだ自分と同じものを感じたのだ。絆を否定した上で成り立つ絆。これぞ「悪くない」イズムである。
綺麗事の胡散臭さを撃つ
実は元々『クロスアンジュ』は、もっとストレートに明るいアニメとして企画されていた。当初は清廉潔白なお姫様が、やさぐれた周囲のノーマ達を教化していくようなストーリーだったという(この「幻のクロスアンジュ」については、aninadoの記事で詳しく書いたので参照してほしい)。そのコンセプトに対し、クリエイティブプロデューサーの福田巳津央(『ガンダムSEED』『GEAR戦士 電童』)が疑問を投げかけた(BD-BOX映像特典より)。うわべだけの綺麗事を並べたてる人間ほど、信頼できないものはない。それを打破することこそ、アンジュの使命ではないか?そこから本作は、「悪くない」アニメへと一気に舵を切る。
今の世の中「絆」と言えば、それは人を縛るものだし、「友達」って言っても一生の中で、本当の友達なんて実は少ない。その言葉を出されると皆思考停止してしまう。(中略)そうは言ってもアンジュも最終的には、「友達」という言葉は使いませんが、もっと違う形で誰かとつながっていくようになるんだろうと思いけどね。でも、それもあまり上滑りしたようなつながりにはしたくないですね。(『グレートメカニックDX 30』福田インタビューより)
あれから6年。うわべだけの「正しさ」がもたらす思考停止ーー福田とアンジュが見定めた敵は、かつてよりも大きな顔をして社会を練り歩いている。であれば今こそ、クロスアンジュを「現代的」作品として、見直す意味も増しているというものだろう。