ゴジラ対ランボー:『ランボー ラスト・ブラッド』
ランボーシリーズ最新作『ランボー ラスト・ブラッド』を観て気づいたのだが、ランボーとゴジラは似ている。どちらも、戦争のトラウマを背負いながら、戦場の地獄を戦後に再現する存在だ。
(画像は『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』)
しばしば言われるように、ゴジラは核の恐怖、被曝国としての日本の苦い記憶を象徴した怪獣として見れる。ただ、ゴジラと核の関係には、相反する二つの側面がある。ひとつは、ゴジラが核実験で誕生した怪獣であり、核の被害者であるという側面。もうひとつは、ゴジラが都市に放射火炎を撒き散らす、核兵器そのものでもあるという側面だ。この二面性に筋を通すのが、『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』で採用されたゴジラ≒戦死者説だった。同作ではゴジラは太平洋戦争で死んだ亡霊の集合体であり、だからこそ、戦争を忘れた日本で戦争の恐怖を再現する。
(画像は『ランボー』)
ランボーもまた、ベトナム戦争に負けたアメリカの苦い記憶の象徴である。ランボーとベトナム戦争の関係も一筋縄ではいかない。彼はベトナムで壮絶な体験をし、PTSDとなってしまった。ランボーはベトナム戦争の被害者である。だがランボーは1作目から最新作まで、「終わってしまったベトナム戦争」を戦い続けてもいる。
「何も終わっちゃいない、何も!」
最初は田舎町の警官を相手に、2作目では戦争後のベトナム軍を相手に、3作目ではソ連軍を相手に、4作目ではミャンマー軍を相手に、そして今回はメキシコのチンピラを相手に、様々な人々を巻き込んで、彼は記憶の地獄絵図を再演する。殺人マシンに教育された彼が、生を全うできるのはあの戦場だけだ。
「ベトナム戦争版ゴジラ」としてのランボーは、これまでのシリーズにも見出せる要素ではあった。だが『ラスト・ブラッド』でははるかにわかりやすくなっている。
【以下、『ランボー ラスト・ブラッド』のネタバレあり】
(画像は『ランボー 最後の戦場』)
これまでのシリーズでは、ランボーは何かを救うために戦っていた。1作目では自分の身を守るために、2作目では捕虜のアメリカ兵を救出するために、3作目ではトラウトマン大佐のために、4作目ではNGOを助けるために。
今回は違う。最初こそ義理の娘のガブリエルを救うための戦いだったが、結局彼女は薬漬けにされ、ランボーの目の前で息絶える。ランボーはここでもう負けているのだ。手助けしてくれていたジャーナリスト・カルメンは、悲しみを受け入れて前に進むしかないと彼を諭す。でもランボーは納得しない。
「前に進めなかったらどうすればいい?」
「奴らに俺たちの悲しみを味合わせてやる」
純然たる復讐である。ここでランボーは、市民的道徳感覚をはみ出し、過去作には見られなかった、まったく建設的でない暴力をふるい始める。だからこそ、いったい何が彼を駆り立てるのか?と問いたくなる。そこで突き当たるのがベトナムの記憶だ。
最終決戦の舞台は、ランボーが自宅の地下に掘ったトンネルだ。戦いのために用意したわけではない。穏やかな日常生活の中においてなお、ランボーは北ベトナム側が張り巡らせたトンネルを再現することでしか、精神の安定を保てなかった。ランボーは敵をトンネルにおびき寄せ虐殺していく。アウェーで戦った過去作と対照的だ。ランボーは地下に隠した自らの狂気の中に、何も知らない若者達を引き摺り込んで、ベトナムの悪夢を再現するのだ。
映画のラスト、ランボーはチンピラのボスの胸を裂き、心臓をえぐり出す。
「これが俺の痛みだ(This is what it feels like)」
たぶんランボーが敵に感じさせたいのは、娘を失った悲しみや怒りだけではない。あの負け戦の恐怖を、彼らに教えてやりたいのである。ゴジラのように。
※セリフは独自訳です。
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