ベテルギウスの死ぬ日に
星は見えないほうがいい。
冷風は頬を切る。カーディガンとスカートとレギンス、それとキルトマフラーに包まれた以外の肌から全身が冷めていって、私は雄二郎の熱を欲する。
走る自転車は今、暗緑の空の下を進む。空気もそんな色をしていて、なにかほの暗い海中を行くみたいだった。
陽が沈んですぐの、暗い夜空に瞬きの一つもないようなほんのわずかな時間。私はそれが好きだ。星のきらめきも、街の灯りも遠い場所で、つくりものみたいな世界が味わえる。不思議ではじける気持ち。私はやはり、星は見えなくていいと思う。
でも、雄二郎は違うみたい。
うおん、とどこかでお犬が吠えた。あいかわらず風も吹く。
ふと空に目を向けると、なにか瞬いているように見えた。
「ご覧」
雄二郎の声。温かく、冬の冷気を断つ声だ。
「一番星が、光りはじめたよ」
ほのかに気分の上がった音色が、私の耳に入る。それで私はちょっとだけうんざりしたから、うんざりした分だけ、彼の腰に巻いた腕の力を強める。すこし強すぎるか、と思ったけれど、雄二郎は何の反応も返さない。お腹には浮き上がった六つの固いこぶがついていて、たくましさを感じた。
雄二郎は、野球少年だった。
周りがだらだらと練習をするなか、その真摯な瞳がめずらしかった。
この人は、申し分のない男だ。
私は、心の底から、そう思う。
星は残念なことに、いつものように、気づけば数えきれないほど空に広がっていた。切ない。短い緑の空との逢瀬は、あまりに大きい余韻を残す。私は夜のはじまりを、こんなさびしい気持ちで迎える。
でも、雄二郎は違う。
首をすこし上へ向けるだけで、空はよく見える。頭上は、ずっと先まで開けて何も邪魔するものがない。お決まりのこの帰り道は、そういう構造だ。雄二郎は、ときおり首を動かしては、嬉しそうに息を零す。私はそれでまた、腕の力を強めた。
「今日はちょっと、あそこに行こうか」
来た。今日は、などというけれど、二日に一回はこの発言が出てくる。もう、帰り道のなかにそれを織り込んでしまえばいいのに。
ぎゅうっとしめると、苦しいよ、と笑い交じりで言われて、私はさすがにかと思い、力を緩めた。身体の重なりが、薄くなる。
雄二郎は私のことを、どれほど知っているのだろう。離れた距離の分だけ、私は不安をもった。そこはかとない、疑問。私はどれほど、彼に探索されているんだろう。気になる。
でもきっと、たぶん私が期待する以上に、雄二郎は分かっていない。わかっているのだったら、今さっきついたこの土手へなんて、何度もつれてこないはずだ。
到着して、二人乗りの自転車から降りた。雄二郎は自転車を止めるという手間がある。だから私は、先に土手の斜面の草に座った。
あとから彼が来る。
私は、見たいわけでもないのに自然と視界を埋め尽くす夜空を眺めた。この土手は、近くに高い建物もなく、大きく遠景が見られる。すべからく私たちは、川に映った星の原や、黒に浮く冷えた月などを味わえるのだ。
体育座りをして、私は息を吐き出してみた。白く湯気のように顔のすぐ近くを舞って、息は早くも飛んでいってしまう。はかない、と思った。
とさっと横で音がして、私は手を差し出した。すると握り返される。あったかい。この温度は、とてつもなく存在している。馬鹿みたいな文章だけど、ほんとうにそう感じる。手以外はまるで冷たいので、なおさらだ。
熱が私の意識や感情を、全部吸い取っていく。つないだ左手に脳があるかのように、私はそこだけを感じ続ける。
でもやはり、雄二郎は違うのだ。
「シリウスが、綺麗だね」
声がしたから顔を向ければ、彼は上を見たままだった。
私へ言葉をおくるときくらいは、こちらを向いてくれればよいのに。とうとう私は、悲しくなってくる。もっとほかの話はできないのかしら。学校でのことについてや、受験についてや、私たちのこと。
それともやっぱり、あなたの好きなものを、尊重するべきなのかしら。
夜空をぼうっと見ても、私にはオリオン座くらいしか見つけられない。シリウスはどこだろう。私には見つけられない。ただ、オリオンの腰の星みっつなどばかりを、私は目で追う。
これで、よいのだろうか。
「そういえば」
なにか、新たな流れを感じる言葉だ。私はほんのすこしだけ、期待に足を浸けた。
雄二郎は、きちんとこちらを向いている。視線が絡まることが、これほど嬉しいことだったか。
私はやはり、星など見えなくていいのだ。
「そろそろ、夕の自転車は直るんじゃないかい」
「ああ、そういえば……」
期待は妙なかたちで砕ける。私たちの話ではあったけれど、あまり、ふれてほしくない話だった。
登校に母のお古をつかっていた私は、とうとうガタのきたあれを壊してしまっていた。それを修理に出して、いまは雄二郎の後ろを借りている。
私は正直なところ、自転車をいつまでもお店にあずけておいてしまいたかった。このところの帰宅が、私は好きだった。
雄二郎は、違う。
「直ったら、二人乗りをしなくてもよくなるね。安心するよ」
夕を危険にさらさなくてすむのだから。
嘘がない。無垢だ。あまりに、誠実な男子だ。雄二郎は、やっぱり格好が良い。
けれど、でも、違うのだ。私はまだ、二人乗りをしていたい。
ちょっとした段差や、警官の影を気にしながらすこし冷や冷やすることは、とても私たちにとって、大事なことなのだ。
清すぎるあなたと私の関係において、二人乗りはれっきとした罪なのだと思う。そして罪だからこそ、必要だと思う。
少しの罪くらいは、二人で共有していたいじゃない。これくらいをたがいの手にたずさえていなきゃ、幸せにもなれないわ。
なんて、言えないけれど。
だから私は、あいまいに、でも変に思われないように、うまく「うん」と言った。
夜空はいまだ、きらきらと、雄二郎に見つめられている。それが少し、憎いと思った。
「ベテルギウスがね、死んでしまうというんだ」
「ベテルギウス?」
「そう、ベテルギウス。オリオン座の右肩をご覧」
星空が大きく回って、いまは横に寝ているオリオンを見る。下方になった右肩が、赤っぽく輝いていた。
あれがベテルギウス。それくらいは、私も知っていた。
「で、死んじゃうって?」
「つまり、星の寿命をもうすぐ迎えるらしいんだ。いや、もしかしたらもうすでにベテルギウスは消えているかもしれないね。あの星の光はさ、つまり何億年も前の光であるわけなんだ。驚くことにこの宇宙は、僕らの速さをはるかにしのぐ光でさえ、ただの一瞬では渡れないらしい。つまり、星が実際に光を放った瞬間と、こちらでその光を受け取る瞬間とでは、大きすぎるずれが起きるわけさ。そのタイムラグは、やがて星が光を放たなくなるときでさえ、僕らに星を見せつづける。すでに終わったものとしていまだ輝くあの星を見ると、それはそれでまた、なんだかいい気持ちになれるんだ。不思議だと思わないかい。まったく、消えているなんてつゆにも思わないあれが、死んでいたりするんだよ」
惚れ惚れ、といったかんじだ。
雄二郎は寝そべったオリオンをいまだ眺めている。私は私で、そんな彼を眺めた。
ベテルギウスの話は、私にとってうまくよさの感じられないものだったけれど、でも、なにかしらを得た感覚はあった。それは、確信と言い換えてもよい。
もう時は迫っているのだと、私は今、真に実感した。
また空を見る。いまだ赤く光るベテルギウスが、私を諭している。
まるでいま気づいたかのように君は語っているけれど、本当は、もっとずっと前から気づいていたんでしょう。それなのに、したたかな女だね。もうすぐ終わりが来るのさ。もし君のその無駄な思い込みが、あきらめているという本心に気づかないがための鬱屈なら、ささっと捨ててしまって、君は次の新しくはじける鮮やかな想いでも手に入れてしまえばいいのではないかい。ねえ。
はあ。吐息が白んですぐ消える。どうやら私の脳は、握られた左手を去り、いまはベテルギウスにいるらしい。私はまったくもって、意識を他にとらわれやすいのだなあとおもい、もう一度、息を白くした。
「ねえ」
私は、ベテルギウスに言われるがまま、ほんのすこしだけ時を進ませることにした。いつかくるそれが、ほんとうに、ほんのちょっぴりだけ早まるような、そんな言葉を雄二郎に向けようと思う。
「なんだい?」
まったく、無防備な雄二郎。まじめで真摯な雄二郎。そして、あまりにばかな雄二郎。
うまく言えるだろうか。私は、うまく告げられるだろうか。
すぅ。息を飲み込む。
「思ったの」
「なにを?」
とげのない問いが、私に刺さる。
でも、言うしかないのだ。
「私たちは、ベテルギウスによく似ているわね」
さながら、知的な眼鏡かけの女のように、私はレトリックをつかった。
案の定、雄二郎は沈黙にのまれる。私の言っていることが理解できないのだ。たぶん、嫌味であるということにさえ、彼は気づいていない。
あと半年、いや一年、もしや一生。雄二郎は、この言葉の意味を知らないままかもしれない。
けれど、それでもいいのだ。どちらにせよ、結末は同じ。
知らないうちに私は、人生で一度もしたことがないような角度で微笑んで、雄二郎のほうへと顔を向けていた。
瞬間、音とも呼べない、息をのむ気配が鳴る。
雄二郎は、真っ黒な宇宙の瞳に私をうつして、なにかとらわれたような表情をした。そしてそのまま、ふわりと固まった。
「ごめんね、よくわからないこと言っちゃった」
私はわざと、そんなしおらしい言葉をはいて、顔をいつものように笑わせた。
すると、雄二郎をからめとっていたなにかもほどけ、彼もまたいつもどおりの様子に戻る。
「ううん、別に、仕方ないよ、こんなロマンティックな夜空だもの。そんな風に言いたくなるものさ」
やっぱり、雄二郎は違った。
そして、彼はまた、空に目を戻す。
再びの星空観賞にならい、私も肯定的な目で、それらを見てみた。
ベテルギウスがまだ赤く瞬いている。でもきっと、気の飛ぶような長い光の向こうで、いま彼は爆ぜ、消えてゆこうとしているのだ。そうしてそこから、宇宙という水に緑の乳をぶちまけたような、そんな超新星が新たに生まれ、ただよいはじめる。
私たちは、さびしい地球の上から、ベテルギウスの光だけを追って、ここまできた。実にたくさんのことを通過しながら。出会いやキスや、ランデヴー……初めての日のこと。そんな旅の途中で私たちは、ある一つの恒星が消えたことに気づかない。いまだ光っているのだと、勘違いするから。
そしてある日、私たちはとうとう終着点について、空からある一つの赤い点が見えなくなるのを、見届けるのだろう。
その日はきっとたぶん、疲れ切ってしまって、すぐにおたがい、眠りについてしまうはずだ。
やがて、強い光に起こされる。目を開ければ、もう新しい朝が来ている。それはやはり、どれほど光が目に沁みても、私たちにとって、とてもうれしい朝なのだ。
そんな朝が、どうか私に、雄二郎に、訪れますように。
とす、と雄二郎へ預けた身体に、彼の上着のやわらかさが伝わる。雄二郎は、ふ、と笑ったような気配を見せて、それから、そっとやさしく、私の肩を抱いた。
夜はいまだ、暗いまま。
私は、彼の腕の中で、おだやかに眠っていけるような気がした。