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本を読むこと

本というのは、通読しなくては読んだことにならない、という考えがどこかにあって、本一冊きちんと読めないことを情けないように感じていた。
本というと、幼少に読んだ物語や、大人になる過程で読んだ推理小説などの、何とも言えない面白さ。時間をかけて日々、それを楽しみにして読んだことが真っ先に浮かぶから、通読、という感覚もそこから来てるのだろう。
今は、分量のある本をそうやって楽しんで読める状態ではないから、かつてはそれができた時もあったから、勝手に情けない気分に陥ることで、何かの帳尻を合わせているのかも知れない。
もう長いこと本とは無縁だったが、自分で詩を書くようになって、身近に本を置くようになった。その多くは現代詩手帖という雑誌だ。けれどもやっぱり、隅々まで読むことはできず、読めないものをためていく罪悪感、大げさに言えばそれがあって、毎月買うのはやめてしまった。今、家にある分だけで、自分は読むのに困らない。これらを読める時読んでいこう、そんな気持ちもあったようだ。
仕事の、夜勤のときに、現代詩手帖を一冊えらんで、持って行くようになった。まったく読めないときもあるが、いわゆる休憩時に、数ページでも読むことができると、嬉しかった。
家では体力を消耗した状態でいることが多いので、本が読めることがまれだ。その点仕事のときは無理にでもテンションを上げているから、長いひとりの夜勤のときにだけ、本が読めるという具合なのだ。
考えてみれば、雑誌というのは、どこから読んでもかまわないし、好きなところだけ読んだって全然いいのだ。詩というのは、あまりにも長過ぎるということはまずないから、気が向くところ、いいなと思った数ページを繰り返し読むのでもいい。
そんなことを、つい最近の夜勤で思った。どこを読もうか、と何となくめくり、手が止まったところに、惹きつけられる詩があると嬉しい。読んでないところが多いから、何度でもその雑誌を楽しめるじゃないか。たまたま手を止めたところに、野崎有以さん という方の詩が抜粋で載っていて、繰り返し読んでいた。付箋がないから、雑誌に折り目をつけて、また読むときの目印にしようと、そんなことをしているうちに、楽しい感覚になった。これが、今の自分の、読書。数ページでもいい。読みたいと思いながら全然読めない日が続いても。これでいい、と思った。

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