厳しいようで優しいamazarashi と優しいようで厳しいSUPER BEAVER
おはようございます。
最近猫派から犬派になりつつある。理由としてはこの歳になって捻くれてるものが嫌になってきたから。昔は猫の可愛いくせにツンケンしてる感じがたまらんかったのだけど今はもう普通に懐いてくれる方が嬉しい。ツンデレってリアルであったらツンの段階で友達ゼロですからね。「べっ、別にアンタのためにしたんじゃないんだからねっ」とか言われてもそれが好意に転じることなんぞねえ。俺のためだけに尽くすって言え。奉祀せえ。
余談はさておきこの2組
なんかこう、この2組を同時に聴いているっていう層が想像できない。どちらも歌詞のメッセージ性に重きを置いた音楽性であるが内情は真逆。北風と太陽。ジキルとハイド。Teruとhyde。交わりきらない何かを感じる。星の王子さまとドグラマグラを読む層が交わらないように。ビーバーのファンからすればamazarashiは「辛気臭っ」って思うだろうしamazarashi のファンからしたらビーバーは「浅っ」って思うかもしれない。
つまりamazarashiは「リアルをシニカルに表現する根暗なアーティスト」、SUPER BEAVERは「理想を飾らない表現で真っ直ぐ歌う根明なアーティスト」という認識があるような気がする。
しかし思った。
「案外逆じゃね?」
認識は人それぞれだけど、上記のカテゴライズには首を傾げてしまう。そんなことをつらつら書いていきたい。
どちらのファンもどっちかのファンもそうでもない人も両バンドの魅力が伝われば幸いです。
音楽性の違い
まずはamazarashi。
最新曲『1.0』を引き合いに説明するが、とりあえず神曲だから総人類聴くとして楽曲展開は基本的に王道のJポップを踏襲しているといってよい。
Aメロ→Bメロ→サビ
→Aメロ→Bメロ→サビ
→Cメロ→サビ
amazarashiは基本的には突飛な展開は訪れない。基本的には上記の王道パターンを踏襲している。歌詞や音色の多さとバランスをとるように楽曲展開は極力シンプルに構成されている。
そして歌唱方法だが、一言で言うなら「誤解のない歌い方」をボーカルである秋田ひろむはする。一音一音をハッキリと発音して歌唱のオンオフも小節の頭できっちり区切る。ヒップホップの素養もあるため韻が小気味良く連なるためリズミカルな歌唱も可能。カラオケの音階バーがあれば確実に音程をとれる歌い方だ。いうなればボカロでも比較的再現可能。もちろん本人の乾いた深い声でこそ成立する部分があるが楽曲のみでいえば誤解のない音楽性といえると思う。
だからamazarashiは案外覚えやすいし歌いやすい。そういう意味ではこのカラオケ文化が根付いた日本においてはだいぶ「優しい」アーティストではないだろうか。
かわってビーバー。こちらも最新曲『ひたむき』
この曲の楽曲構成はこう。
Aメロ→Bメロ→サビ
→合唱
→Aメロ→Cメロ
→サビ→Bメロ→合唱→Aメロ
なんじゃこりゃ。一応アニメ主題歌で90秒に切り取られるわけだけどそれ以外で好き勝手している。まあ90秒で好き勝手する9㎜というバンドもいるが。
音色は愚直なほどにバンドサウンドオンリーだし歌詞もまっすぐ。そこに楽曲構成までシンプルだと単純につまらない曲になるところを一聴で理解しきらせない楽曲構成にすることで帳尻を合わせている。なかなかに作詞作曲の柳沢は策士よ。これが分業だったらこうはいってないはず。
そしてボーカルである渋谷龍太の歌唱方法がまたクセモノ。バケモンみたいな歌唱力なんだけれど節回しが独特。
「こんな気持ちにならなかった」という歌詞部分を普通の歌い方で表記するなら
「コンナキモチニナラナカッタァー」(太字が頭)
だが渋谷が歌うと
「コンナキモチニンナランナカッタアー」となる。
なんか文面だけ見るとめちゃ馬鹿にしてる感じになるけど決してそうではない。ラクダ投げないで。タメやコブシが効いた浪曲めいた歌唱方法は彼のルーツである小田和正や山下達郎などの往年のJポップスターの影響が色濃く出ているのだろう。しかもビブラートは喉を震わせる技術的なものにプラスしてあご全体を動かして声そのものを物理的に震わせる独自のものを使用している。これ、彼にしか再現できない独自のものになっている。秋田ひろむの誤解のない歌唱方法とは真逆。
覚えるのに難儀な楽曲構成に如何様にも解釈できて偶発的な渋谷のボーカルは覚えてアウトプットするのには相当な時間を要する。実際大体の楽曲は5回聴けば覚える自分でもビーバーの曲は20回は聴かないと難しい。楽曲構成とか歌唱だけでなく同じ様に聞こえて実は違うっていう曲が多い。『美しい日』とか。
ビーバーコピバンしようとしている諸君。なんか簡単そうって思ってコピバンしようと意気込む諸君。わりと厳しいと思う。ちょっと練習してテクめのバンドやった方がいい。楽器がシンプルゆえに地力の部分でごまかしがきかないからな。というわけでいろんな意味で実は「厳しい」ビーバーというのがお分かりでしょうか。
歌詞の違い
amazarashiの根本が最も出ていると思った楽曲『未来になれなかったあの夜に』を引きあいに出す。
醜い君が罵られたなら 醜いままで恨みを晴らして
足りない君が馬鹿にされたなら 足りないままで幸福になって
上記の歌詞が彼らのスタンス。彼らはマイナスの現状を肯定するスタンスである。彼の歌はまずスタートラインがそもそもマイナスであり、参加資格を得る以前の状態でもがき苦しんでいる状態のところに「他にもレースあるぜ」って言ってくれる存在である。
彼らは希望をうたっている。しかし一筋の光を見つけ出すためにまず現状の闇を徹底的に洗い出す。そのためには過激な表現も厭わない。その闇部分を抽出されて「なんか暗いバンド」って思われているならそれは少し寂しい。誤解を恐れず言うなら彼らの音楽はポジティブソングである。幸せになるために現状の不幸せを歌いだしているだけである。
暗いでしょう。確かに暗い。けれど歌詞でもあるが、
愛すら知らない人がいるのは確かだ
それを無視するのはなぜか
それを無視するのが愛か
愛を知らない人に響くラブソングはこの曲だろう。彼はそのマイノリティを無視しない優しい存在であるのは間違いない。
一方ビーバーのスタンスが色濃く出ているのはこの『ロマン』だろう。
それぞれに頑張って
それぞれに頑張って
それぞれに頑張って また笑おう
一緒に頑張ろうは なんか違うと ずっと思っている
親愛なるあなたへ 心を込めて 頑張れ
ここがamazarashiと一番違うところ。彼らは背中を押すが手を差し伸べてはくれない。
一緒に頑張ろう。確かに甘美な響きだ。苦しみを背負うのは1人より2人がよい。2人より100人。町中より日本中。日本中より世界中。さあそこで頑張るのは誰だ?多分大体の人間が「誰か」だと思っているはず。頑張るの基準がないならそれぞれに頑張ることで初めてその理想論は成立する。そのことを彼らは知っているんだろう。わりときついことを言っている。ロマンというタイトルながら歌詞は極めてリアリスト。お前と俺は違うから一緒には頑張れねえ。だから「頑張れ」って言うしかねえだろって曲。
この時代「頑張れ」って鬱病患者に絶対使うなっていうことは広まっているがあえて彼らはこの表現を使った。
なぜか?
誰よりも響く「頑張れ」を彼らが持っているからだ。
「頑張れ」って死ぬほど聞いた言葉だけどそれを説得力持って言える人は極めて少ない。少なくとも頑張ってない奴が言っても響かない。彼らは「頑張れ」ってたった4文字に誰よりも気持ち込めて伝えられる歴史の重みがある。だからあえて厳しい道に進み非情とも捉えられかねない表現を持ちいた。
一つも逃げずに向き合えば 行き着く先の想いは
ただ 幸せになって欲しいとか 共に幸せでいたいとか
嘘つかないで求めてよ それの何が悪いんだろう
大事な人 大事なものと もっと もっと 楽しい未来へ
同じラブ(ヴ)ソングでこうも違うか。
まず「一つも逃げずに向き合えば」という何気ない一節だけど逃げ出さないのが前提ってなかなかに厳しい。逃げてもいい、向き合う必要はないって言ってしまえば簡単だけど敢えて厳しい言葉を投げかけて人間の在るべき姿を投げかけるのが彼らの人間賛歌である。
「あるがままの姿」を歌うamazarashiと「あるべき姿」を歌うSUPER BEAVER
喜怒哀楽をカテゴライズ 人に合わせて歌が出来て
悲しい時はこの歌を 寂しい奴はあの歌を
別にカテゴリを再定義したいわけでも「暗い奴はビーバー聴け」「明るい奴でもamazarashi聴け」と言いたいわけではない。音楽は多面体である。響く個所は個人個人と状況によって全然変わる。
結婚して思った。
「そろそろamazarashi卒業かな」と。
昔のような希死念慮は影を潜めたしいろいろな意味で尖りはなくなった。そんな中最新アルバム『七号線ロストボーイズ』を聴いた。
バカほど響いた。泣いた。
ビーバーの最新アルバム『東京』を聴いた。
バカほど響いた。泣いた。
あるがままの自分もいていいし、あるべき姿になりたい自分もいていい。
それが同在することは矛盾ではない。ただそういう人間がいるだけの事。
どっちじゃなきゃダメだということでもないし、どっちでもなくてダメなこともない。
ということでこの両バンド、どっちもいいのでどっちも聴いてほしいです。どっちかしか知らない人でも響くはずです。
それでは。
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